消された歴史・済南事件

惨たらしい済南事件の歴史は消された。


 梅田正巳著「近代日本の戦争」は日本の駐兵や出兵が正当なものかを検証していますが、「関東軍満州駐兵と満州事変」(P91)の箇所で以下の3点の歴史を抹殺しています。
 
 昭和2年(1927年)3月 南京事件
 昭和2年(1927年)4月 漢口事件
 昭和3年(1928年)4月 済南事件

 いくらなんでも少しくらいは書くべきだったのではないかと思うのが、済南事件です。これは日本軍が出兵しているわけですから、主旨にあうはずです。書かないことにより詐欺が露呈してしまいました。

−−−−− 済南事件とは http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21452536.html
 1928年、北伐を再開した蒋介石は怒涛の快進撃を続け、あっと言う間に山東省の済南に達します。これに対し、日本は数万の居留民保護のための「第二次山東出兵」を決断し、5月に国民党軍との衝突が起こります。この時、内閣は田中義一内閣となっており弱腰外交から一転しています。

 1928年4月、在留邦人が多数存在している済南が包囲されます。田中義一内閣は山東へ出兵します。当地の南京、漢口の経験から日本人も暴行を警戒し、厳重な警備体制を敷きます。
 蒋介石が入場すると蒋介石は治安の維持を約束し、日本側の警備体制を解くことを懇請し、日本側はそれを信じて警備体制を解除します。ところが蒋介石軍の暴行が始まり、日本軍が出動、交戦となり、日本軍の死者9名、負傷者32名に上りました。

 悲惨だったのは日本人居留民であり、蒋介石軍に惨殺された死体を見た佐々木中佐は次のように記しています。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。あるものは焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかるような始末である。わが軍の激昂はその極に達した」

 また外務省公電にも次のようにあります。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を押し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」
 
 これが支那人の虐殺手口です。後の通州事件でも、南京事変でも同様の手口です。こうして大陸の不安定は正当な権益を有する日本にとって容認できない状況になっていき、国民の怒りと不満は募っていったのです。
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 さて、梅田氏はこのあたりの歴史を何と書いているでしょう。

梅田正巳著「近代日本の戦争」 P98


 翌1928年(昭和3年)4月、蒋介石に率いられ、閻錫山ほか帰順した軍閥も抱え込んだ北伐の大軍は北方軍閥の拠点・北京に向かいます・・・

 おやおや、簡単にスルーです。この済南事件は支那人の残虐性が特徴です。それも隠したかったのだと思います。戦後の言論空間というのは支那人の残虐性は見事に隠しているのです。人肉を食べる習慣があったことも消し去っています。発端はGHQの検閲やプレスコードによるもので、GHQの媚びる学者たちはそれに従い、敗戦利得者となったわけです。現在もそれはつづき支那に媚びるようになっています。梅田氏もその一人でしょう。


添付画像
 済南事件の被害にあった日本人女性の検視(PD)

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