日本を降伏させるな

 原子爆弾を落としたかった米国は日本を降伏させたくなかった。一方日本国内では鈴木首相の盟友、阿南惟幾が国家のために大芝居をうつ。


 昭和20年(1945年)7月16日、米トルーマン大統領はニューメキシコにおいてプルトニウム型の原子爆弾実験に成功したとの報告を受けます。ソ連参戦がなければ対日戦争の早期完全勝利を望めないと考えていたルーズベルト大統領はヤルタ密約でソ連の参戦を認めていましたが、トルーマンは原爆を使って米優位の対日政策、その後の世界勢力図でソ連、英国に対して優位になることを考えていました。そこでポツダム宣言の陸軍長官スティムソンの原案から天皇の地位保全の条項を削って、日本がポツダム宣言を受け入れないように画策しました。
 
 7月25日、原爆投下命令発令(ポツダム宣言より先である)
 
 7月26日、トルーマンソ連をはずして「ポツダム宣言」を発表。

 7月28日、日本政府は事態を静観し、対応を明確化せず、ソ連仲介の希望を捨てずに鈴木首相は「重視する要なきものと思う」(鈴木の回想)と発言します。しかし、新聞には「政府は黙殺」(ignore)と載り、これが連合国にreject(拒否)とされてしまいます。
 8月6日 広島に原子爆弾投下
 
 8月9日 ソ連は当初、8月15日に参戦することにしていましたが、日本が降伏する前に大急ぎで参戦。
 
 同日の最高戦争指導会議で鈴木首相は冒頭でいきなりこう述べます。
「広島の原爆といい、ソ連の参戦といいこれ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない。ついては各人のご意見を承りたい」

 徹底抗戦を主張していた陸軍大臣阿南、参謀総長梅津、軍令部総長豊田は機先を制され、ポツダム宣言受諾を前提に日本側がつける希望条件についての討議に入ります。その最中に長崎に原子爆弾が投下。
 
 阿南惟幾陸軍大臣は改めて徹底抗戦論を展開。
武装解除の後では連合国側に向かって『それでは約束が違う』と抗議しても、もうどうにもならない。イタリアの先例もあり、轍を踏んではならない。もちろん原子爆弾ソ連参戦となった今、ソロバンずくでは勝ち目はない。しかし、大和民族の名誉のため戦い続けているうちには、何らかのチャンスがある」

 阿南惟幾陸軍大臣が辞職して後任を出さなければ内閣は総辞職になり、直接軍政によって本土決戦になるところでした。しかし、鈴木首相は憲法でいう大元帥による講和大権を行使し、統帥権を制約する手段に打ってでました。阿南惟幾陸相は徹底抗戦を主張していたにも関わらず、素直にこれに従います。これはやはり”役者”でしょう。※

※鈴木と阿南は以心伝心の仲であり、内閣発足当初より終戦を意識した腹芸を行っていた説にもとづいています。


参考文献
 「昭和天皇論」小林よしのり
 「かえるうぶすな」南出喜久治
 「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子著
 「日本国憲法無効宣言」渡部昇一南出喜久治共著
 
添付画像
 阿南惟幾(PD)
 
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終戦秘史】 10 原爆投下・ソ連参戦
http://www.youtube.com/watch?v=2rd3x_lE0mQ