ヒロシマよ、思考停止から脱却せよ!

 広島の原子爆弾で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。



 私は広島生まれの広島育ちで就職のとき東京へ来ました。東京では8月6日が何の日か知らない人がほとんどであるのに驚きました。 原爆ドームが崩れそうで数億かけて補強する話がありました。その時、こちらの人は「そこまでする必要があるのか」と話している人がいたので驚きました。広島を客観的みる情報を自分自身で初めて取得し、自分が井の中の蛙であることを知ったのです。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」

 原爆慰霊碑にはこう刻まれています。広島に居た頃は何も気にしませんでしたが、広島を離れてみるとおかしな言葉であることに気づかされました。誰が誰に言っているのか。「過ち」とは誰の過ちなのか?
 昔は核実験反対の座り込みをよく行っており、みんながんばっているな、という目で見ていましたが、昨年、北朝鮮の核実験の座り込みの話を聞いて、これらは念仏を唱えて申し訳程度の儀式をしているように見えました。いったい何が変わるというのでしょう。自己満足ではありませんか。

 広島に居ると一方向の思考の情報しか流れていないということです。つまり思考停止に陥っているということです。これを証明したのが昨年の前航空幕僚長田母神俊雄氏の講演でしょう。広島では「言論の自由はあるにしても核兵器廃絶を目指す被爆者の思いとは相容れない」という新聞記事が載り、広島市長からも「言論の自由は認めるが」と免罪符をおいて「日を改めるよう」と政治的に言論弾圧を加えました。「核廃絶」=「平和」=「被爆者、遺族の思い」という一方向の思考しか許さないという態度です。独善的、観念的といえます。「平和」など当たり前の話であり、「核廃絶」という方法論はもちろんいい。しかし別の方法論も論じるのは当たり前でありましょう。講演の主催者には被爆者もおり、「被爆者の思いとは相容れない」というのも一方向の思いしか認めないということです。今年は勇気ある市民が弾圧に負けず田母神氏の講演を支援しています。


 東京裁判の判事を行ったパール博士は日本国内で東京裁判が問題視されないことについて以下のように述べています。

「これは敗戦の副産物ではないかと思う。すなわち、一つの戦争の破壊があまりにも悲惨で打撃が大きかったために、生活そのものに追われて思考の余地を失ったこと、二つにはアメリカの巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切が誤りであったという罪悪感に陥り、バックボーンを抜かれて無気力になってしまったことである」

 同じことが広島でも言え、広島では原子爆弾の被害があまりにも大きく、GHQに骨抜きにされたため、思考の余地を失い、今日まで思考停止状態が続いているのではないでしょうか。



 激動し 変転する歴史の流れの中に
 道一筋につらなる幾多の人達が
 万斛(ばんこく)の想いを抱いて死んでいった
 しかし
 大地深く打ちこまれた
 悲願は消えない
 抑圧されたアジア解放のため
 その厳粛なる誓いに
 いのち捧げた魂の上に幸あれ
 ああ 真理よ!
 あなたはわが心の中にある
 その啓示に従って われは進む

 1952年11月5日  ラダビノード・パール
 (「過ちは繰り返しませぬから」に代わる碑文「大亜細亜悲願之碑広島市中区小町 本照寺)

 広島に幸あれ!



参考文献
 「正論」2009.10『観念的平和論に安住するヒロシマの閉ざされた言論空間』安藤慶太
 「パール判事の日本無罪論」田中正明
参考サイト
 パール博士の言葉 http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html
 本照寺 大亜細亜悲願之碑 http://park6.wakwak.com/~nipponkaigi-hiro/c-honsyou.html
 WikiPedia「ラダ・ビノード・パール」

添付画像
 原爆ドーム(PD)

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