マレー半島・シンガポールへ

 昭和16年(1941年)12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。この快進撃を支えたのは現地の人たちです。

「星港攻略記」筑紫二郎著 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封より) 占領した飛行場の修理の場面


 私達にはいつも味方があった。それは住民である。ジョホール・バールからやってきた避難民の住民たちがわれ先と集まってきて手伝ってくれた。彼らは一様に「早くシンガポールを陥してくれ」という。人力もなかなか馬鹿にならない。二日経つと何とか飛行機が降りられるようになった。

 日本軍は住民の支援を受けながら快進撃しましたが、ゲマスという山岳地ではオーストラリア部隊と一週間の激戦を行っています。

現代シンガポールの社会経済史(シンガポール中学校の教科書1985年版)


 オーストラリアの兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証として、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵二百人の大規模な墓の上に一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には、「私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために」という言葉がかかれていた。

 昭和17年(1942年)2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入、15日日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、英軍は降伏しました。

 このシンガポール陥落はイギリス軍史上最大規模の降伏であり、世界に衝撃を与えました。

フランス ド・ゴール将軍2/15の日記
シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」

歴史学者 ヘレン・ミアズ
「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 − (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った − の戦であることが判明したのである」

マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです」

マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏
「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした」

 マレーでは英にくっついて商売していた華僑は日本軍が来るのを喜ばなかったため、ゲリラとして日本軍に抵抗しています。「マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した」という反日プロパガンダもあります。なんと日本人がマレーに調べにきたことがあったようです。

ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員
「先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ。』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません。』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。」



参考文献
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
参考サイト
 教科書が教えない歴史
   アジアにおける日本と大東亜戦争 マレーシア編 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_3.html
 WikiPedia「マレー作戦」

添付画像
 クアラルンプールに突入する日本軍部隊(PD)

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