戦後の日本とタイ


 タイといえばコメ、東洋のデトロイトと思い浮かべる人が多いでしょう。それから仏教の国。あとはクーデターが多く政情不安、国王の権威が高いなどでしょうか。

 戦後、タイでは米英に宣戦布告したピブンが首相に返り咲いています。(1948年)冷戦が深刻化してきており、反共を前面に出すことによって米英の信頼を得たためです。1952年(昭和27年)に鳩山一郎総理と会談し、国交回復を行います。ピブンは1957年(昭和32年)のクーデターにより失脚し、日本に亡命しています。
 ピブン政権のあと政権は混乱しますが、サリット政権とその後のタノーム政権が「開発」を旗印にかかげ「権威主義体制」を確立します。タイ式民主主義とは国王を元首とした民主主義であり、国王、王室の権威高揚につとめます。このときの権威高揚の結果が現在につながっています。

 1963年(昭和38年)からのタノーム政権時代、「開発」によって急速な日本企業の進出と日本製品の氾濫は学生運動のターゲットとなり、「反日」運動となります。この頃、日本企業は500社ぐらいが進出しており、日本企業は規制を受けるようになります。日本企業は随分困惑したようで、タイ政府は日本企業にもっと進出するように言う。学生はエコノミックアニマル、経済侵略と批難する。知識人は公害反対という。政府は工業化、工業化という。合弁相手の華僑資本家は再投資を嫌い、資本を海外に逃避させる。政府は日系企業に働く日本人の削減を要求するが、合弁相手の華僑資本家は日本人に帰らないでくれという。政府は民衆の顔を見ながらも華僑資本と一体をなしているわけで、矛盾というか複雑というかタイの国の構造があります。タイに詳しい東京外国語大学(当時)田中忠治氏は「タイ社会というのはどう理解したらよいのでしょうか」と日本企業から質問を浴びせられて即答に困ったと述べています。

 タイ王室との関係は、昭和38年5月にプミポン国王陛下と妃殿下が来日されており、天皇陛下と会見され、友好を深められています。昭和18年の大東亜会議にタイ代表として出席されたのはタイ国首相ではなく、ワンワイタヤーコーン親王殿下で、この方は日本の国連加盟に尽力されています。

 タイの学校では「国土、資源小国で、敗戦による荒廃を経験した日本が、なぜ経済大国としてよみがえったのか」「他国民は日本にもっと関心を持って研究すべき」と教えています。

 さて、一般に目を向けると、以前ちょっと触れた「メナムの残照」という日本軍人「コボリ」とタイ人女性の物語は大ヒットし、タイで最も有名な日本人は「コボリ」といわれるほどで、タイへ行き、日本人とわかると「コボリ」を知っているか、とよく聞かれるそうです。

 ウルトラ兄弟を扱った映画が大人気だった頃もあったそうで、「ハヌマーンウルトラ兄弟」といい、ハヌマーンはタイの守護神で、それが危ないときウルトラ六兄弟が助けにくるというものです。ウルトラ兄弟の編隊が飛んでくるシーンは真珠湾攻撃をモデルにしたのだとか。
 「ドラえもん」をはじめとするアニメ、ゲーム、ファッション、「たまごっち」「厚底サンダル」などはタイでも流行り、若者向けサブカルチャのふるさととしての日本という意識もあるようです。




参考文献
 「物語 タイの歴史」柿崎一郎著
 「タイのこころ」ククリット・プラモートチット・プーミサック著 田中忠治編訳・解説
 「アジアに生きる大東亜戦争ASEANセンター編
 「歴史通」WiLL2009.7月号『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
参考サイト
 WikiPedia「ナラーティップポンプラパン」

添付写真
 バンコクの夜景(Alter氏所有)

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