感情の記憶

 歴史学者の北村稔氏の著書の中で中国社会科学院文学研究所研究員の孫歌氏の論文「日中戦争 感情と記憶の構造」の内容を紹介しています。

「『感情の記憶』すなわち生きた人間の感情は、従来の歴史学では事実認識を阻害するものとして無視されてきた。西欧起源の近代歴史学においては、『歴史の客観的真実性』への対立物として扱われてきたのである。そして孫歌氏は『感情の記憶』の喪失は、歴史から緊張感と複雑性を奪い、歴史をイデオロギーや政治に簡単に利用されてしまう死んだ知識に変えてしまうと主張する。」

 これはまったく逆で「感情の記憶」こそがイデオロギーや政治に簡単に利用されてしまうといえるでしょう。北村稔氏もそう述べています。

 上智大学名誉教授の渡部昇一氏と王毅駐日中国大使の論戦の話があります。日本再生ネットワークのブログで紹介されています。http://nippon7777.exblog.jp/2977611
 渡部氏が日中戦争に至った経緯を支那側が仕掛けたと論じたところ、王毅大使は何も言わなかったそうです。靖国神社参拝に至っては王毅大使は「七人のA級戦犯が合祀されている。それが中共国民には国民感情として許せないのだ」。渡部氏がA級戦犯など東京裁判史観を論じて意見を求めると王毅大使は「国民感情が許さないのだ。国民感情が」とくり返すばかりだったとか。これは「感情の記憶」が政治利用されている例でしょう。

 日本国内でも思い出します。昨年8月6日に田母神俊雄氏が「広島の平和を疑う」という講演を行おうとしたとき、広島市長から「言論の自由はあるにしても核兵器廃絶を目指す被爆者の思いとは相容れない」と抗議しました。「被爆者の思い」を述べており、これは「感情の記憶」でしょう。この「感情の記憶」はイデオロギーに利用され、広島の平和祈念式典につめかける人がどんな人たちか、広島市民ではないことは語るまでもないでしょう。広島市民は「感情の記憶」をイデオロギー利用され、思考支配されてしまっています。本来、平和への方法論は何通りかあり、それらを論じることは民主主義国家として何らおかしくないはずです。

 「感情の記憶」を組み込んだ歴史観は国際親善、国際発展を妨げ、自由な思考や発想、自由な言論を妨たげる危うさを持っています。


参考文献
 「『南京事件』の探求」北村稔著
 「正論」2009.10『観念的平和論に安住するヒロシマの閉ざされた言語空間』安藤慶太
参考サイト
 「日本再生ネットワーク渡部昇一靖国問題で論破された中国大使
     http://nippon7777.exblog.jp/2977611

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