弱小日本の科学の力「下瀬火薬」 〜 坂の上の雲

 日露戦争において日本海海戦連合艦隊に勝利をもたらした大きな要因のひとつとして下瀬火薬があげられます。結構有名な話でしょう。発明者の下瀬雅允は広島藩の出身で海軍の技師です。兵器製造所に勤務しました。その時の製造科の長が原田宗助という人で、東郷平八郎らとともに英国に留学した人でした。ニューカッスルのアームストロング会社で造兵技術実習しました。
 原田は下瀬に対し「わが日本は弱国である。弱国にしてなおこの帝国主義の世界に生きうる道は兵器の発明あるのみ。君は砲弾の炸薬を専門とせよ。改良よりも世界の炸薬の観念を一変させるような発明をせよ」と訓示します。
 下瀬は火薬の研究中に爆発事故で手を負傷し、不自由となりましたが、研究を続け、1893年(明治26年) 下瀬火薬を完成させます。日清戦争のときはまだ使われませんでしたが、日露戦争で威力を発揮します。

 下瀬火薬は炸裂威力が圧倒的で、炸裂した砲弾のかけらはすさまじい勢いで飛散し、三千度もの高熱ガスを発生させます。ひとたび命中すれば爆風と熱によって、艦上の人間の動きを封殺してしまいます。バルチック艦隊は下瀬火薬の砲弾に悩まされ、隊列を乱し、魚雷や艦砲射撃によって撃沈されました。

 日本海海戦に先立つ黄海海戦でも威力を発揮しており、ロシア水兵は口々に「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言うものもいたそうです。下瀬火薬の砲弾を受けた艦船は沈まなくても完全な廃艦になってしまいました。諸外国の新聞はこの火薬について報道します。「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよくわからないが、とにかく火薬における革命的なものである。」(1904年7月31日ニューヨーク・タイムズ

 1905年5月27日、延々と航海して日本海にたどり着いたバルチック艦隊はこの下瀬火薬の洗礼を浴びます。戦闘は連合艦隊ワンサイドゲームとなり、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させることになりました。弱小日本の科学の力を世界に知らしめた瞬間でもあったわけです。

 日露戦争では科学の力が日本を救いました。大東亜戦争敗戦後、日本人は「アメリカに負けたのではない。科学の力に負けたのだ」と思いました。そして日本は努力し、オイルショックを乗り越え、技術立国となりました。我々はこれらの歴史に学ばなければならないでしょう。


参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 「坂の上の雲司馬遼太郎
参考サイト
 WikiPedia「下瀬雅允」「下瀬火薬」「日露戦争
 常勝ニッポン 日本海海戦 http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
添付画像
 横須賀の戦艦三笠(JJ太郎撮影 PD)

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