旅順戦の乃木将軍 〜 坂の上の雲

 日露戦争の旅順攻防は有名な話で司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木将軍を戦下手に描いていましたが、最近は見直されているようです。
 旅順はロシアがコンクリートを用いて徹底的に要塞化しており、諸国はこのことを知っていたので永久要塞とみていました。しかし、日本は情報不足によりこのことを知りませんでした。日清戦争の旅順攻略戦旅団長だった乃木希典を司令官として第三軍として送り込みますが、攻撃してみると要害堅固さにすぐに気付きます。普通ならここで「おい、この作戦ダメだ」と言いたくなるようなところでしょう。
 しかし乃木将軍は要塞の真下まで坑道を掘り進め、爆薬を仕掛けて爆破する策を考えます。ところが黄海海戦連合艦隊は旅順艦隊の一部を取り逃がしてしまい、同艦隊は旅順に篭ってしまいます。そしてバルチック艦隊バルト海を出発する情報が入ります。連合艦隊バルチック艦隊を迎え撃つには旅順艦隊と挟み撃ちになる危険があり、陸軍に旅順攻略を早めるように矢の催促をしたのです。それで乃木将軍は無理な作戦でもやらなければならなくなったのです。海軍の要請により旅順港を見下ろし砲撃可能な203高地をターゲットにします。普通ならやってられないような話です。評論家の福田恆存(ふくだつねあり)氏は1942年に203高地に訪れ、斜面の急峻さに衝撃を受けており、1970年に乃木愚将論は間違いと指摘しています。

 旅順攻防は1万5千の死者、4万4千の戦傷者を出しましたが、日本軍の士気は衰えることなかったためロシア兵は恐怖を抱いたといいます。乃木将軍が「やってられん」というような態度をとれば士気は落ちていたでしょう。また、乃木将軍の息子二人は危地の部署においたため戦死しています。日本兵士は乃木将軍の心を知り奮闘したのだと思います。(「坂の上の雲」ではそうは書いていない)

 私の曽祖父は旅順戦に従軍し、203高地攻略に参加しています。九死に一生を得て、こうして私が存在しています。戦地で乃木将軍から書をいただいています。曽祖父だけではなく皆もらったようです。曽祖父は軍曹でした。大将がそんな下級兵士たちにまで心を使っていたということです。

 現在、歴史教科書で乃木将軍がどのように書かれているか自由社の教科書を見てみましたが・・・乃木将軍の名前はありません。東郷平八郎はあります。1ページカラー使ってます。極めて困難な条件下で目的を達し、人間的にも優れていた人ですから載せてもらいたいものです。


参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 「歴史通」WiLL10月号『私を"転向”させた坂の上の雲藤岡信勝
 自由社「日本人の歴史教科書」
 「坂の上の雲司馬遼太郎
参考サイト
 WikiPedia日露戦争
添付写真
 旧乃木邸(JJ太郎撮影 PD)
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。