南京の安全地帯

 1937年11月の南京で国際委員会(ラーベ委員長)というのが作られ、中立地帯が作られます。ここは非武装中立地帯ですが、実際は軍事施設があり、国際委員会は蒋介石に軍事施設を撤退するよう求めますが、守られず、日本軍も非武装地帯としては認めませんでした。ですが、攻撃しないように配慮し、実際に攻撃は行っていません。(安全区、難民区とかいろいろな呼び方がある) 

ラーベ委員長
「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」

 安全区に女性子供を含む民間人は避難しており、南京陥落後も入り口には日本軍の歩哨が立ち無用のものの出入りを禁止しています。南京で民間人が大量虐殺されたなどということは全くありません。

 ところが、ラーベ委員長は支那軍の将校を匿っていました。これは本来問題です。フィッチ師も支那兵を匿っていました。(ラーベ氏の裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員、フィッチ師は妻が蒋介石夫人と親友)このほかにも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトンズラしていたのです。
 これらの潜伏した支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。ベイツ教授(国民党のスパイ)でさえ、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後にシナ兵が「ならず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていたものもいます。「皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」(昭和13年2月27日大阪朝日新聞

 この国際委員会というのは国民党のスパイで固められて、支那兵を匿ったりして、ほぼ抗日組織といえるでしょう。日本兵の非行の話が日本側の外交官補の福田篤泰に連絡をいれますが、なんら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう言っています。


 当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
「いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している」。あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている」等。その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人がぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして講義されても困る」といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。

 これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されています。(仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い)そしてティンパーリーの宣伝本にも使われました。しかし検証したものはありません。(国際委員会書記長スマイス博士証言)おそらく支那人に金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったのでしょう。
 南京では支那兵の悪行が日本兵の行動にすりかえられ、日本兵の悪行を捏造して宣伝していたのです。現在もこれを取り上げて”南京大虐殺”と叫ぶインチキ日本人がいることを知っておきましょう。



参考文献
 「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道
 「南京事件の総括」田中正明

添付写真
 「南京入場式」(昭和12年12月17日)  日新報道「南京の真相」より

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