海軍も南京にいた

 1937年の南京戦では海軍も参加していたんですね。あまり知られていないかもしれません。海軍11戦隊が揚子江を上り、下関に到着して下船して13日には南京城内に入っています。

砲艦勢多艦長 寺崎隆司少佐

 13日の午後3時15分です。中興碼頭には日本陸軍が来ていまして日の丸を振っていました。南京に着いたら陸軍と連絡せよと司令官から命令されていましたので、中興碼頭に向かうと保津に信号しましたら先頭の保津がすぐに中興碼頭に向かったので、勢多が先頭になり、さらに先の下関桟橋に向かいました。
 下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機銃で掃射して近づきました。(ここまでにジャンクや筏の支那兵に遭遇している)

 寺崎隆司少佐は翌年の7月まで南京にいましたが、もちろん南京虐殺など見ておりません。

 南京陥落後、海軍は南京下関から1.8キロ離れた紅卍字会の保国寺難民区(難民と市民二万余り)に対して食料や被服を給与しています。そして敗残兵の掠奪から市民を守っていました。これに尽力したのが土井中佐で、救援物資が到着したとき、市民と難民は「南京下関平和街」の横断幕をはり爆竹をあげ、日の丸を掲げ、歓呼して迎えています。土井中佐に紅卍字会から感謝状が送られました。

土井申二中佐

 私は第三艦隊艦隊司令部にいき、人道上、宝塔橋街をそのままにすることができない、といいました。すると長谷川清司令長官は宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料をくださいました。
(中略)
 平和街が落ち着いた頃、比良(砲艦)は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭を離れました。陳漢森(紅卍字会の代表者)はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感謝したものと思います。

 南京で30万人を虐殺するような日本人に救援物資をくれただけで感謝してずっと手紙のやりとりをするはずがありませんよね。日本軍は武士道の精神で行動していました。
 もちろん陸軍も同じで、脇坂部隊(歩兵36連隊)は13日夜、敵の戦死体をねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔いました。



参考文献
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著
 「『南京事件』の総括」田中正明

添付写真
 世界紅卍字会南京分会長陳漢森の礼状  日新報道「南京の真相」より


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