万宝山事件と中村大尉殺害事件

 1928年から1930年にわたり在満朝鮮人支那人との対立紛争は100件を超え、国民党は「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追い出そうとします。行き場を失った朝鮮人長春の西北約20キロの万宝山に入植しようとしました。ところが吉林省政府の警官隊は朝鮮人農民の退去を求め、1931年7月に遂に支那人農民が大挙してかれらを襲撃しました。そこで日本は朝鮮人日本国籍を持つ日本人)保護のため武装警官を出動させます。
 直接の紛争の原因は朝鮮人農民が作った灌漑水路が支那人の所有地を横切ったというものですが、背景を見ますと朝鮮人迫害と排日、侮日があります。支那人は警察に訴え、朝鮮人は日本領事館に応援を求め、両者睨みあいとなり、支那人が水路を破壊しはじめ日本の武装警官と衝突し、発砲する騒ぎとなったのです。このとき死者はでませんでしたが、朝鮮の新聞が大々的に報じたため、朝鮮半島で反支暴動が起こり、華僑の店舗やお家屋が襲われ100人以上の支那人が殺害されました。

 この暴動とほぼ同時期に起きたのが中村大尉殺害事件で、中村大尉は対ソ戦に備えた兵要地誌作成のため、井杉延太郎(予備曹長)とともに変装して興安嶺方面を偵察中だったとき現地の屯墾軍につかまり、殺害されます。事件は6月ですが、7月になって発覚し、日本側は抗議しますが、支那側は「でっちあげだ」と事実を隠蔽します。幣原外交は9月になっても「日支友好」を持論に全く動こうとせず、これまで積もり積もった反日、侮日よる日本人の怒りは頂点に達していきます。かねてから支那人には国家統治する力が欠落していると考えていた関東軍作戦参謀石原莞爾らによって満州問題を一挙に解決すべく満州事変へと突入していきます。

 満州事変に至る経緯をみていますと日本が条約によって正当な権益を持っていたにも関わらず、それを無視して張学良や国民党が不当な行為を繰り返していること、日本の外交が「日支友好」を掲げて弱腰で対応していることがポイントとして挙げられます。日本を軽くみて嫌がらせがどんどんエスカレートしていき限界点に達してしまっています。南満州鉄道だけみても1928年から31年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件もあります。弱腰外交の行く末はこの後の対米開戦に至る経緯でも見ることができ、我々はこの歴史から学ばなければなりません。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 新人物往来社歴史読本」2009.9『万宝山事件』戸部良一
 「騙しの交渉術」杉山徹宗著


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