満蒙開拓団の悲劇

 1945年6月、根こそぎ動員によって満州の開拓団の男たちは次々と召集されていきました。関東軍は南方に兵力を持っていかれたので、その補充でしたが、対ソ戦も意識していたと思われます。4月にソ連は日ソ中立条約を延長しないことを一方的に決定して日本に通告しています。その裏ではソ連仲介による和平工作を行っていますから中途半端な状態で政策が進められていたようです。防衛計画の変更がソ連側に洩れることが恐れ、国境付近の入植者には何の通知もしていません。

 モスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に宣戦布告が知らされましたが、日本領事館の電話線は切断されていました。9日午前零時を以ってソ連軍は進攻を開始。東部国境、北東国境、北西国境、モンゴル人民共和国内蒙古との国境からいっせいに進攻します。ソ連軍は避難する一般民の女性や子供も容赦せずに襲撃したため、集団自決をふくめ、一万人以上の開拓団がその犠牲になっています。

 「はるかなる紅い夕陽」森田拳次著では千振村に8月11日に国境守備隊から緊急打電が入り、いそいでリュックサックに荷物をつめて避難列車に乗り込んだ様子が描かれています。綏花(すいか ハルビンの北)に到着したのが15日で日本の敗戦を知り、収容所に入れられますが、娘さんは発疹チフスにかかって亡くなります。
 秦彦三郎関東軍参謀長が8月23日付で河辺虎四郎参謀次長に打電した文章
ソ連首脳部は、その軍隊に対し日本軍および邦人に対する無謀なる行為を戒める(いましめる)あるも、現実においては無法なる発砲、略奪、強姦、通行中の自動車強奪など目に余る行為、全満州に頻々たり。いまや日本軍の武力全くなく、右に加えて満州軍および満州人、朝鮮人反日侮日など事態の推移は決して楽観を許さず、将兵の忍苦、真に涙なくして見るべからざるものあり」
 
 「はるかなる紅い夕陽」では女性は皆丸坊主にしています。連れ去られた女性はボロボロになって帰ってきて、その日のうちに首を吊る人もいたと書かれています。大連に向かう途中も匪賊に襲われ、列車運行中も気が狂って列車から飛び降りる人もいました。9月半ばに入ってようやく新京にたどり着いています。




参考文献
 「はるかなる紅い夕陽」森田拳次
 「世界史の中の満州帝国」宮脇順子著
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
参考サイト
 Wikipediaソ連対日宣戦布告」


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