流転の王妃

 流転の王妃と呼ばれる嵯峨浩様は大正3年(1914年)、嵯峨家の侯爵嵯峨実勝(さがさねとう)と尚子夫妻の第一子長女として東京で生まれました。嵯峨家は明治天皇と縁続きの名門です。浩様は昭和12年(1937年)満州帝国皇帝愛新覚羅溥儀の弟君、愛新覚羅溥傑殿下とご結婚されます。溥傑殿下は十数枚のお見合い写真の中から浩様を選んだと言われています。たしかに浩様のお見合い写真を見れば選ぶでしょう。
 溥傑殿下は軍人で、随分と部下思いのお方だったようで、日本語も流暢に話し、浩様のことは「浩さん」とお呼びになり、仲の良いご夫婦だったようです。
 
 1945年8月9日。ソ連が突然満州に進軍します。新京では空襲警報が鳴り響きます。浩様らは炭鉱の町へ避難します。8月15日敗戦。玉音放送が聞き取りにくかったため、溥傑殿下と浩様は皇帝の溥儀殿下のもとへ事実を確認にいきます。「お兄様、本当でございますか」溥儀殿下は泣きながら頷きました。
 溥儀殿下と溥傑殿下は空路で日本へ亡命するため奉天へ飛びますが、そこにはソ連の黒い輸送機が数十機待機しており、有無を言わさず一行をシベリアのチタへ向けて護送します。浩様は娘と溥儀殿下の后婉容様は朝鮮半島経由で日本へ向かいますが、吉林省通化中共の日本人大虐殺事件に巻き込まれます。そして中共の公安局に軟禁されます。
 1946年4月。浩様らは延吉に連れ出されます。そこには「漢奸偽満州国皇族一同」(裏切り者ということ)と書いたプラカードが用意されており、それを先頭に浩様、婉容様ら800人の日本人捕虜が街を引き回されます。投石と罵詈雑言、浩様は屈辱を耐えます。しかし、この後、婉容様は人格が崩壊してしまい、別の場所に移され、お亡くなりになります。
 監獄を転々としてきた浩様の帰国がかなったのは1947年1月4日、佐世保へ到着します。このときのインタビューの結び「敗戦の現場を(異国で)体験した旧華族ソ連抑留中に亡くなった近衛文隆様と私だけでございます。」

 1961年浩様は16年ぶりに溥傑殿下と再会し、再び夫婦として暮らし始めます。文化大革命の嵐を切り抜け、何度か日本に里帰りしています。
 1987年7月20日。北京で逝去。享年七十三歳。溥傑殿下は浩様の亡骸に取りすがって「浩さん、浩さん」と慟哭されたといいます。



参考文献
 「愛新覚羅浩」渡辺みどり
参考サイト
 WikiPedia「嵯峨浩」「婉容」

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