満州は支那ではない
現在多くの日本人の認識は満州は支那の領地であり過去戦争で日本が侵略したと思っているでしょう。現在の中共は満州史を「東北史」と位置づけて、支那の一部の歴史のように装っていますが、満州が支那に領有されたのは戦後で、それ以前はありません。
満州は満州民族がいました。清国は満州は満州民族の土地であり侵すべからずとしていました。万里の長城を超えて漢民族が流入しないようにしていました。しかし、北からロシアがやってきて19世紀後半には満州の半分を侵略してしまいます。(ウラジオストックやハバロフスク、アムール川、ゼーヤ川あたりは満州だった)日清戦争以降、清国は満州への漢民族の移民を解禁します。日本は清国と条約によって満州に租借地を得ます。清国が崩壊したあと満州も支那も内乱状態になりますが、このときも蒋介石などは満州は別の国という立場をとっています。北伐の最終地点は万里の長城です。満洲は張作霖(漢民族)の軍閥が大きな力を持つようになります。
言ってみれば日本は清国と条約に基づいて満州に租借地を得ていたのに対し、張作霖ら漢民族の軍閥らは満州民族から見れば外国人であり満州を侵略していたということになります。張作霖爆殺事件、満州事変は軍閥と関東軍の抗争でしたが、満州民族から言えばどちらも外国人になります。
満州と一口に言ってもモンゴルも絡んできます。1935年、チンギスハーン第30代にあたる徳王が満州国の首都新京(現・長春)を訪れ、満州国が東部内モンゴルを編入していると抗議しています。
この満州の誤解については現在の誤解だけでなく、1931年の満州事変のあたりでも欧米諸国は誤解しており、1932年の米国務省発表のスチムソンドクトリンでも満州事変を「以前には存在していたところの南満州における中華民国政府の行政的権威・・・」と述べています。日本はちゃんと歴史的背景を主張をし、満州民族の声を世界に届けるべきでしたが行っていません。2007年には満州語が話せる人は100名ほどの高齢者になってしまったそうです。
参考文献
「騙しの交渉術」杉山徹宗著
「ノモンハン戦争」田中克彦著
「日本の植民地の真実」黄文雄著
参考サイト
Wikipedia「満州事変」