軍命令にされていた九人の残留 〜 真岡郵便局の悲劇

ウソが独り歩きしていた。


 昭和20年(1945年)8月20日、ソ連軍が南樺太の真岡に上陸し、自動小銃、手榴弾で民間人を攻撃しました。こうした中、真岡郵便局電話交換手が職場を守り、9名の女性交換手が自決する事件が起こりました。この事件は映画にもなりました。
 北海道稚内市稚内公園には「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」があり、事件を慰霊するものですが、この碑文には当初、次のように記されていました。

「昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は、青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に、日本軍の命ずるまま青酸カリをのみ、…」

 日本軍の命令などないのですが、典型的なGHQ製戦後イデオロギーの例でしょう。

 碑が建立されたのは昭和38年(1963年)で、それにちなみ「氷雪の門」という歌が発表されました。歌は畠山みどりさんで、畠山さんが曲が作られた経緯や殉職交換手のことを語ったことが雑誌に発表されました。

「当時樺太の電話局はすべて軍の管轄下にありまして、交換の方々も毒薬を携帯し、特攻隊として任務についていらっしゃったようです。ですから軍から職場を死守せよと命じられれば、それはその通り守らなければならなかったようでした」

 嘘が一人歩きし始めていたのです。幸い、事件当時の真岡郵便局長であった上田豊蔵氏が「当時樺太の電話は総て軍管轄下であったと云うが、これは真っ赤な嘘である」と言下に否定し、「彼女たちは純粋な気持ちで職場を守り通そうとした。それを軍の命令でというのは、この人たちを冒涜するのも甚だしい」「あらゆる者たちが慌てふためき、泣き叫び逃げまどっている中で彼女らは、キリリとして活動を続けていたのである。このようなことが、他人の命令でできるかどうか、その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命感以外にない」と憤りました。現在では碑文は次のように訂正されています。

「…その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた…」

 九人の殉職交換手は「北のひめゆり」とも言われており、今のところ沖縄のように怪しいイデオロギー集団が巣食っていないようですが、平成20年(2008年)8月に日本テレビが『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』というドラマを放映しました。この中では殉職交換手は局長命令で局に留まったとし、青酸カリの包みがやたら強調されていたといいます。そして主人公の養父が終戦の報を聞くなり「俺は朴○○だ」と朝鮮人であることを明かし、「お前ら日本人はアジアで300万人を虐殺してきた」という台詞があったといいます。今度は別の形で利用されてしまいました。



参考文献
 河出文庫「永訣の朝」川嶋康男(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『樺太真岡郵便局 九人の乙女の悲劇』桜林美佐
 オークラ出版反日マスコミの真実2009」『戦争ドラマがおかしい』但馬オサム
参考サイト
 WikiPedia「氷雪の門」「真岡郵便電信局事件」

添付画像
 九人の乙女の像 Auth:100yen CC

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氷雪の門 畠山みどり
http://www.youtube.com/watch?v=t4c0ydOPZyE