ソ連兵は悪魔だったのか 〜 南樺太の悲劇

ソ連兵は残虐だったと伝えられているが・・・

 

 昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告し、満州南樺太に攻め込んできました。8月15日を過ぎても侵攻を止めませんでした。南樺太では軍使や警察官が射殺され、シベリアに抑留し、婦女子等を集団で暴行、昼夜区別なく掠奪行為が行われました。真岡町では多くの民間人が銃撃され犠牲になりました。

 こうした話は枚挙にいとまがありませんが、樺太生まれの道下匡子さんの真岡で体験した次のような話があります。
「私が満三歳三ヶ月の時のことです。ひやりとした暗い防空壕の中で、19歳の長男から一番下の私まで7人の子供が、父と母だけを頼りにじっと息を殺していたあの長い恐怖の時間。そしてついに私達の防空壕ソ連兵に見つかり、真っ先に彼らの前に投降した父のあとから、いよいよこれが最期と観念した母と子供達が続いたのです。とその時、思いがけないことが怒りました。三人の兵士のなかでリーダー格と思われる兵士が、三歳といっても発育不良で『掌にのるくらいちいさい』女の子を見ると、持っていた二本の柳包丁を号の入り口の丸太にグサリと突き刺し、自由になった両手で抱き上げたのです。・・・『マリンケ、ハラショ、ハラショ』と呟きながら私の頭を撫で・・・」

 このとき、日本人の多くは防空壕に避難していましたが、ソ連兵にしてみれば日本兵が隠れているのではないかという恐怖もあり、防空壕を見つけると銃を入れて銃撃し、皆殺しになる家族もいました。その一方でこうしたソ連兵もいたということです。

 何事も両面ありますが、避難民のところにソ連兵が現れて、皆を一列に並べ二人ばかり射殺したところに、将校らしきソ連兵が現れ、止めさせ、避難民を安全なところまで先導してくれたという証言もあります。

 警察官は共産主義を弾圧したとかで、憎まれ、真岡支庁の警務課員は全員海岸まで連れていかれて射殺されるという事件がおきています。ところがこんな話もあります。恵須取町ではソ連軍が進駐してきましたが、その部隊長は藪崎警察署長に対して警察は従来どおり町の治安維持を努めるように言い、警察官らは平素の通り規定の服装で勤務していました。ある日そのソ連の部隊長が異動することになり、次のように述べました。

「今度私は別の地方に行くことになった。近く後任隊長が着任するだろう。私は今日まで警察官に従前の服装で自由に仕事に協力してもらったが、後任部長があなた方をどのように処遇するかについて私は責任をもてないから、今からすぐ自由行動をとられた方がよいのではないか」

 こうして恵須取の警察官は早速自由行動をとることができたというものです。ただ、ソ連の警察官への追跡は執拗で藪崎警察署長は捕まってしまったようです。おそらくシベリア行きでしょう。

 ソ連兵の質の悪さはソ連軍高官にとっても頭が痛かったようで、民政局長のクリューコフ大佐は「日本人に危害を加えてはならない」「習慣と伝統に干渉してはならない」「日本人の所有物に手を触れてはならない」「日本女性との性関係は相手の同意を得られても一切持ってはならない」という指示を発しています。もちろんこうした処置は「日本人のため」というよりも日本人に樺太を復興させないと樺太の経営がたちゆかない、という要素が大きく占めています。



参考文献
 河出書房新社「ダスビダーニャ わが樺太」道下匡子(著)
 文芸社樺太回想録」太田勝三(著)

添付画像
 豊真線の宝台ループ線。付近で8月21-22日にソ連の真岡上陸軍と日本軍の戦闘が行われた。国書刊行会「目で見る樺太時代」(PD)

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