沖縄返せ! 〜 サンフランシスコ講和条約

当然、言うべきは言う。


 昭和26年(1951年)9月4日、サンフランシスコ講和会議は米国トルーマン大統領の開会の辞で始まりました。この会議に白洲次郎は講和会議首席全権顧問として随行しました。講和会議はソ連チェコスロバキアポーランドの調印式ボイコットがありましたが、予想より短い5日間で調印式を迎えることができました。

 調印式の前日の9月7日に吉田首相が講和条約の受諾演説をする予定になっていました。吉田茂は次郎に「演説の草稿に目を通してくれたか?」と聞きます。次郎は「あなたの晴れ舞台ではないですか。お好きにやられたらいいんじゃありませんか」と返すと吉田は「そう言わず見てくれよ」と言います。

 次郎は渋々外務省の役人に草稿を持ってこさせます。そして一目で渋面になります。

 次郎の回想
「それを見るとしゃくにさわったね。第一英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせやってるのです。英語でこういうものを日本の首席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろってといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、ぜんぶ日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは沖縄かえせということ」

 次郎は奄美大島琉球諸島小笠原諸島等の返還についてに言及させようとします。これにはGHQを恐れる外務省は次郎を思いとどまらせようと必死になります。しかし次郎は「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談いうな!」と一喝しました。以下、直された原稿の一部。

「第一、領土の処分の問題であります。奄美大島琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります」

 この日本語原稿は演説の直前まで作成が続けられ、できあがったときつなぎ合わせると30Mにもなり、巻くと直径10センチになりました。吉田茂は下読みなしでぶっつけ本番で悠々と読み上げました。この巻紙原稿を各国のマスコミは「吉田のトイレットペーパー」と打電しました。

 9月8日は調印式でした。「ジャパン!」とアナウンスが入り、吉田首相以下6名の全権委員が登壇しました。吉田首相は調印の際にサイン用として新品のペンが渡されましたが、わざわざ胸ポケットから自分のペンを出してサインしました。独立を回復した日本が自力で国際社会を生き抜くという意気込みをみせたパフォーマンスです。

 次郎(そうだ、じいさん。よくやった!)

 そしてこの日、はじめて議場に日の丸の旗がはためきました。



参考文献
 講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
 河出書房新社白洲次郎」『講和条約への道』白洲次郎
参考サイト
 データベース『世界と日本』 日本政治・国際関係データベース
  東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
  サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説
  http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510907.S1J.html

添付画像
 サンフランシスコ講和会議へ向かう機上の吉田茂(右)と白洲次郎(PD)


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