暴徒・不逞朝鮮人 〜 関東大震災

不逞朝鮮人が暴徒と化したのは真実だった。


「不逞鮮人益々拡大 王子横浜方面に於いて軍隊と衝突
 不逞鮮人及び主義者の一派は其の後、猖獗(しょうけつ 猛威を振るうこと)を極め、三日午前十一時三百余名手に手に爆弾を携え之を投じ或いは放火し近衛師団の三個中隊と王子付近に衝突乱闘の結果、三十余名捕まる尚同日午前四時四百名の同鮮人爆弾を持ちて横浜方面より来襲討伐の一個中隊は少数のため全滅の恐れあり・・・」
荘内新報 大正12年9月3日号外
 
 新愛知 大正12年9月4日号外でも横浜で戦闘の記事があります。これはデマか?

 震災直後、越中島の空き地には三千人が非難していました。そこには軍の糧秣廠(りょうまつしょう)があり、これは馬の秣(まぐさ)を収納する簡素な倉庫でした。これが次々と爆発を起こし、火の海となり三千名が焼死しました。
「しかも鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいう側において不逞鮮人の物色操作に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引き捕らえた。おそらく首魁者の一人であろうというので厳重に詰問した挙句ついに彼は次のごとく白状した。『われわれは今年の或時機に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、次いで全市いたるところで爆弾を投下し、炸裂せしめ全部全滅鏖殺(おうさつ - みなごろし)をたく謀らみ、また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた』河北新報 大正12年9月6日

「私が田端で不逞鮮人の巨魁らしき壮漢が軍隊に取り押さえられて自白しているのを聞くと、彼らは二百十日を期して蜂起するのを計画を樹て8月28日に銀行や郵便局の預金を悉く引き出し準備した。若し二百十日が静穏であったならば、今週の御盛典を期して行うことに決していたが、恰も震災に乗じて活動したものであると自白したが直ぐに銃殺された」鉄道機関手 平田鉄談(北海タイムス 大正12年9月8日)

 一つ目は月島あたりと思われ、この朝鮮人は自警団に処刑されています。吉村昭著「関東大震災」によるとこの話はデマだと述べています。理由は書いてありません。二つ目は田端であり、地理的には離れています。報じたのも別々の新聞です。証言にはテロを準備し二百十日に行動を起こす、何かのイベントでことを起こす、という一致が見られます。これはデマ?だとしたらうまくコントロールされたデマです。

朝鮮総督府警務局文書 労働運動家の反応 現代史資料6
共産主義を鼓吹(こすい)する者及び之に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の損害より之に伴う火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり。彼らはこの壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべく期待し居りたる/戒厳令布かれ遂に其の目的を達する能(あた)はざりしは遺憾なりと同志間にて語り合うものあり」 ・・・犯行を明言しているものがいる、ということです。

 震災直後の9月3日に無政府主義者の朴烈(ぱくれつ)と愛人の金子文子が東京淀橋警察署に連行されています。朴烈は尋問にこう答えています。
「俺は日本の天皇、皇太子を爆弾投擲(とうてき)の最重要なる対象にしていたのだ。それで、爆弾が手に入ったらいつでも機会を見て使用するつもりだった。できるだけ日本の皇太子の結婚式に間に合うよう計画を進めてきた」

 つまり9月2日(二百十日)、11月の御成婚式を狙って社会主義者無政府主義者が革命テロを起こそうとして、そのとき関東大震災が発生し、好機とばかりに蜂起したのです。しかし、この事実は内務相の後藤新平らが、彼らを力で抑えるのは更なる事態悪化を招くと判断され、流言、デマにして必死に抑えられたのでした。



参考文献
 「関東大震災 〜 朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著
 「関東大震災吉村昭
参考サイト
 【実録】 続・関東大震災 不逞鮮人暴徒化 
   http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2

添付画像
 関東大震災で壊滅的な損傷を受けた旧両国国技館(PD)

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関東大震災
 http://www.youtube.com/watch?v=0_4jQU7pBe4