日本を戦争に引きずり込め 〜 盧溝橋事件



 昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発します。北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と支那国民革命軍第二十九軍との衝突事件です。これは支那共産党の策略と見て間違いなく、前年の西安事件によって蒋介石は命を助けてもらうかわりに抗日に同意し、共産党員らが早く決起するよう煽り立てたものでしょう。
 
 盧溝橋事件より前に支那二十九軍は日本軍を各個撃破する計画をたてており、これは盧溝橋事件後に日本軍が計画書を発見しています。支那二十九軍は5月から増兵、トーチカなどの整備にあたっていました。副参謀の張克侠(共産党員)は積極的に日本軍撃滅を考えていました。張克侠は最終的には満州攻略を考えており、この計画を支持していたのが、共産党の指導者である劉少奇書記です。

 この事件発生後、日本軍の憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが土砲と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事件拡大を策していたことが判明しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は「劉少奇の指導を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書にしるしてあります。

 モスクワのコミンテルン本部は盧溝橋事件勃発をうけ、次のような指令を発しました。
1.あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならない。
2.右目的の貫徹のため、あらゆる手段をりようすべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、彼等に行動をおこさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち判らしめなければならない。
・・・

 共産党員はこの指令に基づいて幾度も停戦協定をやぶり、日本からの和平の働きかけを悉く壊していったのでした。

当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアム

「日本は今度は迅速に対応した。(これまでの抗日テロにたいして) 共産主義者は後退し、南京の軍閥の統治下に呻吟(しんぎん)していた北京市民は、日本との門が開かれたことを喜んだ。彼等は蒋介石の北京抹殺計画を知っていた。また世界では知られておらず、支那人は皆知りたがっていたことだが、蒋介石はモスクワの共産主義と平和協定を結んでいたということも知った。支那共産党は権力の座に昇ろうとしていたのだ。支那共産党蒋介石と日本を戦わせようとし、戦争に引きずり込んだ。思ったとおりになった。しかし北京の市民はこれらの共産主義者に抵抗した。町が共産主義者に乗っ取られたならば、南京に屈従しなければいけないし、反日軍閥に救いを求めばならない羽目になるのだ」

参考文献
 「大東亜戦争への道」中村 粲著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著
参考サイト
 WikiPedia「盧溝橋事件」

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実録 支那事変 1/4

http://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc