小磯内閣誕生



 昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。東條内閣は崩壊し、小磯内閣が誕生しました。しかし、戦局が好転するわけではなく、9月15日に米軍はペリリュー島へ上陸。小磯内閣は何ごとも動きが遅く、「木炭自動車」と揶揄されます。昭和天皇はこう回想されています。
 
「この内閣は私の予想通り、良くなかった。改造問題にしても、側から言われると直ぐ、ぐらつく。云う事が信用できない。その代わり小磯は私が忠告すると直ぐ云う事を聞く。それでいて側から云われると直ぐ、ぐらつく。つまり肚(はら)もなく自信もない。その為しばしば米内を煩わせて小磯に忠告した」

 この小磯内閣は小磯國昭の政治基盤が弱いことから近衛文麿の提案によって米内光政との連立内閣という形になっています。陸相東條英機の推す杉山元陸相となっていることから、近衛文麿に何か考えがあったものと思われます。依然として東條英機の影響力は残っており、部下だったものに対して「小磯は3ヶ月もすればつぶれるから、自分が帰ってくるまでがんばれ」と励ましていることが周囲に伝わり、近衛文麿鳩山一郎細川護貞、松野鶴平ら、反東條勢力は警戒を強めています。
 
 そしてついに米軍はレイテにやってきます。レイテで決戦し、講和への道筋をつけるどころか、陸海軍意見が一致せず、陸軍内でも山下泰文大将はルソン決戦を主張し、寺内南方総司令官と意見があいません。結局、陛下の御意志ということで、レイテで戦うことになりましたが、残念な結果に終わっており、別途述べたいと思います。
 
 講和への道筋がなんらたたないまま昭和19年は暮れていきますが、以前『新・平成日本のよふけ』という番組に元大本営作戦参謀の瀬島龍三氏が出演しており、昭和19年のクリスマスにモスクワへいくため東京を発っています。youtubeにも番組録画がアップされています。

「モスクワについたのは1月19日でした」
「大使に戦局の実体の説明をして・・・」

 ここで一旦切って編集されています。5日滞在したといいますから、何かほかにも活動していたのでしょうが分かりませんでした。何をしてきたのか?指示したのは誰か?梅津美治郎か?
 このとき瀬島氏はソ連がドイツにいた兵力を東、満州方面へ転戦させているのを目撃し、百個師団を満州に集めるとして、8月の後半から9月が極めて危ない、と判断したと述べています。後世の我々からすれば「何だもっと早くなんとかしていれば」と思うところですが、歴史は変えられない。



参考文献
 「東条英機」太田尚樹著
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
 文春文庫「昭和天皇独白録」
参考サイト
 WikiPediaペリリューの戦い」「小磯内閣」
 
添付画像
 小磯内閣(PD)
 
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新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第6回 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=4q98IHjCgPw