青い山脈



 大東亜戦争日米開戦時の首相、東條英機終戦直前の手記が国立公文書館にあります。全文は読めておりませんが政府のポツダム宣言受諾に対して「新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰を抜かし・・・」「もろくも敵の脅威に脅え、簡単に手を挙ぐるに至るが如き国政指導者及び国民の無気魂なりとは、夢想だもせざりしところ」と書かれています。多くの人は"東條という人は戦争をはじめて日本を焦土にしたにも関わらず、まだこのようなことを言っていたのか”と思うことでしょう。「東条英機」を書いた太田尚樹氏もそういっており、「読むに堪えない」と述べています。しかし、それは戦後、GHQによるWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)で洗脳されているからそういう思考になるのだと思います。当時の国民は抗戦意識が非常に高く、東條英機の言葉は国民感情と一致しています。
 東條英機という人を陸軍中将・石原莞爾は戦後、米、英、ソの検事の臨床尋問を受けたとき、東條と意見が対立していたというではないか?という問いに対し「東條には思想も意見もなく、意見のない者と対立はない」と言っています。陸相だった宇垣一成も似たようなことを言っていますので、東條英機は組織や組織の目的に忠実に生きることを主とした人だったのでしょう。だから聖戦完遂(せいせんかんすい)の意識が強かった、国民も同じように強かっただけのことです。そして終戦に際しても国民は米に対して不服従の意思でした。

 国民の心に変化が現われはじめたのは評論家の西尾幹二氏(昭和10年生まれ)によると昭和23年頃でアメリカは憧れの国に変化したと述べています。チューインガム、ホットドッグ、映画「ターザン」、ヒッチコックの映画、西部劇、大リーガーなどがもてはやされるようになりました。厳しい検閲と焚書公職追放東京裁判、GHQ憲法神道指令、などの政策にはまっていったのと、食べるものをはじめとする物資は米国に頼らざるを得なかったし、もともと日本人には異邦人を憎むという感覚は持っていなかったのもあるでしょう。
 
 そしてこんな歌がヒットします。

 青い山脈(昭和24年)作詞:西條八十 作曲:服部良一

  若く明るい歌声に なだれは消える花も咲く
  青い山脈 雪割り桜
  空の果て 今日もわれらの 夢を呼ぶ
 
  古い上衣よさようなら 寂しい夢よさようなら
  ・・・

 日本人は大東亜戦争以前のことは「古い上衣」「悲しい夢」として”さよなら”して、「理想主義」に転向したのです。京都大学教授の中西輝政氏は過度なまでの「脱歴史的期待感」「戦後理想主義」といった気分があふれ、その中に「反戦」と結びついた社会主義思想が隠されていたと指摘しています。
 
 さよならしてしまった「古い上衣」の中には日本人にとって大切なものが含まれていたような気がします。マレーシア元上院議員ラジャー・ダト・ノンチックの「日本人よありがとう」の序文にある詩が頭に浮かびます。「かつて 日本人は 清らかで美しかった・・・」
 


参考文献
 「東条英機」太田尚樹著
 「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
参考サイト
 WikiPedia青い山脈 (歌)」
 
添付画像
 映画『青い山脈』の杉葉子原節子(右)(PD)

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青い山脈 (1949)
 http://www.youtube.com/watch?v=bAKmKJxtWZg