大日本帝国憲法作成に関わったユダヤ人



 大日本帝国憲法伊藤博文らがドイツにいきプロイセン憲法を手本にして作成したものです。伊藤博文ビスマルクに会い、ベルリン大学憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストの講義を受けます。グナイストはローマ法の教授だったことがあり、行政実務の経験もあり、イギリス法にも精通しており、かなりの人物でした。
 グナイストはユダヤ人です。弟子にアルバート・モッセという人がおり、この人もユダヤ人で伊藤への講義はモッセも受け持っています。
 アルバート・モッセは1886年(明治19年)に日本招かれて4年にわたり滞在しました。モッセは日本に魅せられて日本を深く愛するようになります。ドイツ帰国後、以下の詩を書いています。



 私は日本人を心から深く愛する。

 日本の風土を心から愛する。

 まるで、わたしにとっては母国のように思われる。

 日本での仕事は、毎日、忙がしかった。

 だが、いつも日本人の笑顔によって囲まれていたから、快かった。

 そして、日本を去る日が巡ってきた。

 日本はすばらしい、身近な、大切な思い出として、片時だに忘れることができない。

 

 モッセは1925年に生涯を閉じます。

 第二次世界大戦がはじまったころ、駐日ドイツ大使を務めたW・ゾルフの未亡人が、ベルリンの街でモッセの娘マーサに出会います。ワイマール時代に二人は日本関係のパーティでしばしば顔を合わせていたのでした。マーサはまもなくユダヤ人収容所に送られると語りました。そこでゾルフ婦人はその足で日本大使館を訪れ、マーサとその娘エバを保護するように訴えました。日本大使館アルバート・モッセのことはよく知っていたので、ドイツ政府に特別な配慮を与えるように要請しました。このためマーサもエバも収容所に送られることなく、日本大使館からの食糧、医療の援助を受け、大戦を乗り切ることができました。

 ちなみに現在のGHQ憲法ユダヤ人が関わっています。ホロコーストを免れるために東京へきていたピアニストのレオ・シロタの娘ベアテ・シロタという人です。作曲家の山田耕作が一家を救い出して日本に招いていました。
 ベアテ・シロタさんは、GHQ民政局に通訳要員として採用され、ホイットニー准将はベアテさんをはじめ25人に9日以内に憲法を作るように命じました。ベアテさんは驚いて途方にくれたといいます。もちろん、骨子は決まっていたと思いますが、細部のところや整合性などはここで共産主義者らが作成した憲法案や世界の憲法をもとにして25人の素人によって憲法が作られたのでした。



参考文献
 「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一
 「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
参考サイト
 WikiPediaアルバート・モッセ」
 
添付写真
 アルベート・モッセ(PD)


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