大日本帝国憲法
私が子供のころは「イチハヤク大日本憲法発布」と1889年に大日本帝国憲法が発布された年を覚えたものです。この憲法ができるまでの苦労話も何かで読みました。今は学校で近代史は駆け足で教えるそうなので、ほとんど語られていないのではないかと思います。
1874年(明治7年)からの自由民権運動において、憲法議論が盛んになっていき、1881年(明治14年)10月12日に国会開設の勅諭が発され国会の開催を1890年(明治23年)に行うことが約束され、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示しました。 1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として、参議・伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡ります。イギリスには明文化した憲法はないし、アメリカは共和制なので参考にならない。そこでドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めました。伊藤は、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインに会いアドバイスを受け、ドイツでビスマルクに会い、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイストを紹介してもらいます。ビスマルクは「ドイツの帝国憲法はたくさんの小さな国を集めて作ったものだから、日本の参考にはならないでしょう」と言ってドイツ憲法の前のプロシャ憲法が役に立つとアドバイスを受けました。そしてグナイストの講義を受け、これを参考にして大日本帝国憲法を作成しました。
大日本帝国憲法のちょっと不思議な点は「首相」も「内閣」もないことです。では内閣はどこで法的に決められているかというと憲法発布から4年前の1885年(明治18年)に太政官制を廃止して内閣制度が創設されています。そして伊藤博文が初代内閣総理大臣となっています。内閣総理大臣は誰が指名していたかというと元老院が指名していました。元老院の当初のメンバーは伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌で後に西園寺公望、桂太郎が加わります。明治天皇の信任はあつく、これらの権威によって内閣が成り立っていたわけです。
よく統帥権が問題になりますが、考えてみれば日清戦争、日露戦争も同じ憲法下、体制化だったわけで、日清戦争のときには派兵数について伊藤博文総理の指示は聞かず、軍部独自に派兵数を決めています。司馬遼太郎著「坂の上の雲」では少ない派兵を唱える伊藤博文に派兵数は参謀長が決める、と軍から言われて「憲法だな」と苦い顔をした、と書いています。自分が憲法を草案したからです。
統帥権は欠陥といわれますが、当初は元老の権威があり、軍部と均衡がとれていたと考えることができます。しかし、元老がいなくなると内閣の権威が低下し、憲法に定められている統帥権が強くなり、軍部の意向が強く政治に反映されたということでしょう。ここで問題なのは戦後よく言われる「軍部が暴走した」などということではなく、オールジャパン体制になれなかったこと、ではないかと思っています。
このほか、憲法発布直後にの1890年(明治23年)に教育勅語が発布されています。これは国民に深く浸透したので、国民精神を説いた憲法のようなものだったでしょう。
参考文献
「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一著
「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治 共著
「坂の上の雲」司馬遼太郎著
参考サイト
WikiPedia「ルドルフ・フォン・グナイスト」
添付画像
伊藤博文(PD)