長篠・設楽が原の合戦の真実

 長篠・設楽が原の合戦は1575年6月29日、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦いで、最強武田騎馬軍団を織田徳川連合軍が3000挺の鉄砲で粉砕した戦いです。武田騎馬隊の突撃を馬坊柵で抑え、三段撃ちの一斉射撃で殲滅したと言われていました。昔映画で「影武者」というのがありましたが、鉄砲の音が鳴り響いて一瞬にして騎馬隊が粉砕されたように描いていましたが、どうもそうではないようです。

1)武田騎馬隊は存在しなかった

 戦国時代に日本にきたキリスト教宣教師のルイス・フロイスは「我々(西洋人)の間では馬で戦う。日本人は戦わなければならないときは馬から下りる」と言っており、この頃、日本では馬上では指揮を行うものの馬上で戦うことは行わなかったと思われます。

 一説では信長公記という一級史料に「関東衆(武田勢)馬上の巧者にて、これまた馬入るべきてだてにて」と書いており、「馬上」は戦場の意味である慣用句だったのを後世、本当の「馬」と解釈し、「馬入る」は「攻め入る」慣用句だったのを馬で突撃したと解釈してしまったのではないか、というのがあります。



2)三段撃ちはなかった

 信長公記では1000挺となっており、3000挺という根拠はないようです。三段撃ちの一斉射撃も最前列の目の前に必ずしも標的がそろっているとは限らず、標的が居なければ撃っても仕方が無い。また弾の装填も熟練度が必要で、一斉射撃は一番遅い者に合わせることになり効率が悪くなります。めいめいに撃っていたと考えたほうが自然でしょう。それと戦いは短時間で終わったわけではなく、8時間に及んでいます。



3)野戦というより攻城戦

 織田・徳川連合軍は空堀と柵と土塁をセットにしたいわゆる平城を築いており、ここに武田軍が攻撃したと思われます。実際、連合軍の陣には土塁、切岸などの遺構が見られるそうです。



 というわけで、平城に武田軍の3倍の兵力を持って、千挺の鉄砲で守りを固めていた織田・徳川軍に武田軍(多くは徒歩部隊)が攻めたわけですが、通常考えると武田軍の無茶な攻撃であり、なぜ武田軍は攻撃したか?ということになります。これは諸説あり、従来いわれてきた武田勝頼が「血気にはやった」説はちょっと乱暴かな、と。



参考文献
 「歴史通」WiLL2010.1月『騎馬隊も三段撃ちもない 長篠の戦いの真相』森田善明
 PHP研究所歴史街道」2010.3『長篠の合戦の真実』
参考サイト
 WikiPedia長篠の戦い

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