支那軍には女性がいた

 支那軍には女性兵士がいたようです。1937年南京陥落時の日本の雑誌に記されています。

「画法躍進之日本」『南京陥落祝賀号』(GHQ焚書図書開封より)

 夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。前方には城壁を取り巻いて幅30メートルほどのクリークがあった。クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。城門はすでにピッタリ閉ざされて、泥や砂がいっぱい積んである。クリークの土手の敵は、場内に逃げ込む道はなかった。堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、片っ端から友軍の重機(JJ注記:シナの督戦隊のことです)になぎ倒されて、山のように重なって倒れていく。
(中略)
やがて城門を埋めた小山のような泥の坂のところで日章旗がしきりと打ち振られた。戦車は轟音をたてて動き、私たちもまた一斉に進軍した。
「十二時十二分!」
と小林伍長が叫ぶ。ただ敵の死体と散乱する軍需品の海だった。これを踏み越え踏み越え進むうち
「オイ、女だ!」
と石原上等兵が叫んだ。なんという唐突な言葉だったろう。大南京城が陥落の間際、最高潮の戦場で
「オイ、女だ!」
と叫ぶ。その唐突さにもかかわらず、いや唐突さゆえにか、男性である私はザクッと胸を刺されたように思った。私は石原上等兵をみた。石原上等兵は今一歩踏み越そうとした敵の死体の山をつくづく眺めている。敵の死体に混じって立派に軍装した、紛れもない断髪の女の死体が一つうずまっていた。閉ざされた中華門にすがりついて慟哭するかのような姿で、女が −−− 女の兵隊がおびただしい支那兵と一緒に死んでいた。

 日本兵士は衝撃だったでしょう。当時の日本人の常識としては女性を戦場で戦わせるなどあり得なかったわけです。女性兵士がいたというのは松井軍司令官付・岡田尚氏の証言でも出てくるので本当の話と見て間違いありません。

 このほか支那軍には兵士ではありませんが「慰労隊」という女性がいます。この女性たちは看護婦もするし、将校たちの事実上の「妻」の役割をしていたようです。突撃する兵士を募集しても渋る兵士に対して「お色気」で迫り「東洋兵(日本兵をこう呼んだ)の持っている鉄兜でも鉄砲でも一つ持ってきて」とねだって士気を上げることをします。日本軍の従軍慰安婦の話はでっち上げですが、支那軍の「慰労隊」というのは従軍慰安婦ではありませんか。
 支那軍というのはこんな軍隊だったのです。そして当時、そんな軍隊というのを日本人は知っていました。しかし、戦後こういった話は検閲によって流されなくなり、書籍は焚書されたためわからなくなったのです。わかったとしても現在のマスコミも絶対にこんな話は流さないでしょう。日本の言論空間はまだ閉ざされているのです。



参考文献
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著

広島ブログ クリックで応援お願いします。