敗残兵の処断が南京ホラ話につかわれる

 1937年の南京事件は南京城内で民間人も含めて大量殺戮されたなどと主張している人はもう少ないようですが、敗残兵の処断を”南京大虐殺”としてホラ吹きまくる人はいるようです。もうこの時点でホロコースト並みの世界を震撼させた大虐殺とは次元の違う話になっています。”大虐殺”という表現は単なるプロパガンダです。客観的にみて敗残兵の処断に行き過ぎはなかったか、国際法上どうであるか、というどこの戦場にでもある話です。「大虐殺」と「戦場での行為の適正さ」という点は区別しなければなりません。

 16師団(中島師団)の記録では12月15日に数千の敵が投降してきて南京刑務所を収容所にしています。その世話をした兵士の証言ではメシを食わせなければならないので、寝る間も無かった、と語っています。食料は秋の取り入れの後だったので何とかなったと述べています。

 幕府山でも支那兵が大量に投降しており、だいたい8000と見られています。このとき長参謀が「始末しろ」と述べたことを”大虐殺の指示”と騒ぐ人もいるようですが、長参謀の下にいた上海派遣軍参謀 大西一大尉は「見たことも聞いたこともない」「上海派遣軍が第十軍の師団に命令することはありえない。」と述べています。十軍参謀 谷田勇参謀も「成文として軍命令を下達するには軍司令官の決済が必要。独断では出せない。」と言っています。しかし、65連隊の山田旅団長は「始末せよ」と受け取っています。この話は松井軍司令官付 岡田尚氏も聞いており「長参謀が暴言を吐いたということ。命令ではない。情報参謀ですから命令できない」と述べています。いずれにしろ困った山田旅団長は敗残兵を揚子江で船に乗せて対岸に逃がすことにします。ところが、船がなかなか来ずに不安になった支那敗残兵が暴動を起してしまい、日本兵が襲われます。(死亡9名)そこで機銃掃射となり1、000から3,000の支那兵が死亡してしまいます。

 このほかにも敗残兵の殺害目撃証言はあります。
 「銀行の裏で100人以上が殺されるのを見た」読売新聞 波岡氏。
 「数十人のシナ人を撃っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で撃った。場所ははっきりしない」東京朝日新聞 足立和雄氏
 「八十八師の司令部で日本兵が銃剣でシナ兵を殺していた。敗残兵の整理」東京日々新聞 佐藤振寿カメラマン
 「夜捕虜が連れて行かれるのをみた。中尉と下関埠頭に一緒にいきシナ兵が銃剣で刺されるのをみた。翌朝数えて800だった」海軍従軍絵画通信員 住谷磐根氏
 「300〜500M先で首切りやっている。見に来ないか。と兵隊に言われた」外務省情報部特派カメラマン 渡辺義雄氏
 「小さい河があり支那人200人はいた。機関銃でやられていた。入城式の2日前だった」従軍カメラマン 真柄カメラマン

 これらの敗残兵の処断を語る上ではまずは国際法と照らし合わせてどうか、というのはあります。それを除いても支那兵というのはどんな兵か、戦場心理としてどうか、というのもあるでしょう。支那兵は便衣兵となったり捕虜になっても武器を隠し持って襲ってきます。卑怯な手を使って攻撃するけど不利になるとすぐ投降する、それを日本軍は情を持って接することができるか、という観点もあると思います。おそらく記者たちの証言が敗残兵の処断をさほど問題視していないところからすると、戦場という狂気の場所で支那兵は何であるか、上海戦から通してみてきて特に違和感を感じなかったのだと思います。
 国際法上でどうかというのは私は法律の専門家ではないのでわかりませんが、青山学院大学国際法専門の佐藤博士は「階行南京戦史」に記載されている敗残兵・捕虜の処断を検証し、戦時国際法違反ではない、と断定しています。さらに、南京問題研究者が素人判断で敗残兵の処断を「虐殺」とする研究に苦言を呈しています。



参考文献
 「南京大虐殺まぼろし」鈴木明著
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著
 日新報道「南京の真相」


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