日本のシンドラーに助けられたユダヤ人

 日本のシンドラー杉原千畝に助けられたユダヤ人は戦後、杉原を捜しますが、日本の外務省に照会しますが、「該当なし」を返されます。これは杉原がユダヤ人に「センポ・スギハラ」と教えていたためと言われています。しかし「リトアニアの領事代理のスギハラ」で照会しても「該当なし」だったといいます。私にはどうもおかしな話に思えてきます。戦前の功績を隠そうとしたのでしょうか。ちょっと話しは違いますが、ジャパンタイムズの川口ユディさんが2003年に「南京大虐殺」の取材をしてアイリス・チャンの矛盾点を指摘した記事を書いたところ、なんと日本の外務省から苦情がきたそうです。おそらく外務省には日本の光を消し、捏造歴史を容認するような風潮が続いているのでしょう。
 杉原千畝は1960年難民のカウナス領事館で協議したユダヤ難民の代表のひとり、ジュホシュア・ニシュリと日本のイスラエル大使館で再会します。そして1969年にイスラエルを訪問し、宗教大臣のゾラフ・バルファフティクと再会します。ゾラフはこのとき杉原千畝のビザ発行が独断であったことを知り、「ヤド・バシュム賞」を贈ることになります。賞が贈られたのは1985年のことです。

 杉原千畝に助けられたユダヤ人の中にベンジャミン・フィッショフという人がいます。この人は日本への恩を忘れず大戦後に米国でソニー松下電器の北米、南米地域の輸入総代理業者となります。やがてトランジスターの時代がやってくることになるのですが、この特許は米国のRCAが所有していました。しかしRCAはトランジスターにあまり感心がなかったので、フィッショフはソニーにその特許を買うように勧めます。その結果はいうまでもありません。

 ショウネル・アイゼンバーグは杉原千畝のビザで助けられた人ではありませんが、1940年難民として日本にやってきています。日本は敗戦後、米国の占領下では海外から原料を直接調達できませんでした。(渡航が禁止されている)そこでアイゼンバーグは日本企業に代わり、海外へ鉄鉱石の買い付けを行い、八幡製鉄所と富士製鉄に供給します。後に、三菱、日立、古河電工の海外における代理権を手にいれ世界にビジネス展開するようになります。

 戦後、日本製品は品質が悪いというイメージが残っていましたが、アメリカ市場に日本製品を輸入したのは半数はユダヤ人といいます。ニコンユダヤ人ジョセフ・エーレンライヒが35ミリカメラを作るよう進言して、大当たりしたものです。ブラザーもユダヤ人と手を組んで成功しました。ユダヤ人は商才に長けているので日本製品に目をつけたというのはあるでしょうが、ユダヤ人は日本への恩を感じており、日本人は信用を重んじる民族であるということを見抜いていたのではないでしょうか。



参考文献
 「世界が愛した日本」四條かな子著
 「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
 オークラ出版「世界に愛された日本」
    『日本ほど素晴らしい国はない』田母神俊雄・川口ユディ・西村幸祐


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