ノモンハーニー・ブルドー・オボーの戦闘

 1939年、満州国とモンゴルの国境紛争であるノモンハン事件が勃発しました。この舞台となったノモンハーニー・ブルドー・オボーですが、ブルドーは水が湧き出して小さな湿地や沼ができる場所のことをいい、オボーは塚のことをいい、日本が最初のノモンハーニーだけを略してノモンハンと呼んだようです。

 この戦闘についてはソ連が崩壊後、ソ連側の史料が公開され実態がわかってきたと聞いていましたが、ソビエト大百科が日本軍の損害を61,000人、ソ・モ軍のそれは18,500人としていたのを、1991年の東京シンポジウムで日本側の損耗を38,000人としており、まだ日本の研究者の倍の数字のようです。Wikipediaの数字は戦死者は同じぐらいですが、戦傷者はソ連が大幅に上回っており、装甲車輌と航空機の損失も日本を上回っています。
 情報史研究家の柏原竜一氏は戦闘に参加した日本軍は3万、ソ連軍は23万であったとし、航空機の日本側の損害はソ連の1/10であり、ソ連の兵器は質がわるく、800台が日本軍によって破壊されたと指摘。日本軍が負けたと錯覚したのは情報不足と国際情勢認識不足と指摘し、対ソ戦略を見誤ることになったと述べています。文学博士の西尾幹二氏は「GHQ焚書図書開封」の第3弾を準備中で、その中で、ソ連軍将校のマキシム・ホーソン、手記の和訳「赤軍ノモンハン戦闘記、戦車旅団全滅」を紹介する予定で、この中ではソ連軍が壊滅状態になった話が書かれているそうです。

 戦闘云々ありますが、この国境紛争は日本側の主張するハルハ河を国境とする主張が通っていないことから、目的を達するという観点では日本軍の敗北ということになります。(別の見方もある)また、日本軍が持っていた地図はシベリア出兵のときに旧ロシア軍から奪ったものであり、その地図がそもそも遊牧民の性格を知らず(遊牧民は河を境としない)に書かれたものであって、このあたりの誤解も紛争一因であることも認識しておいたほうがよさそうです。

 1939年5月11日ノモンハーニー・ブルドー・オボーの近くの砂丘で日満軍とモンゴル軍が衝突。これまでも国境紛争は1935年のハルハ廟事件に代表されるようにあったわけで、小笠原師団長もそれぐらいの認識でしたが、ソ・モ軍が終結したとの情報により5月22日に満軍1,600人が出動することになり、28日にはソ・モ軍の戦車部隊と激戦になり東中佐らは突撃して戦死します。

 6月20日になると日本軍は空爆を行い、ソ連機との空戦が繰り広げられるようになり、6月25日にはハルハ河東側120キロ地点の敵基地を空爆する計画まで立てられます。これには大本営は驚き、中止を求め、有末次(やどる)中佐を空路派遣することになりますが、関東軍作戦課は「有末が来る前にやりましょう」として27日に決行してしまいます。これは関東軍作戦参謀の辻政信が中心となって行っており、彼の冒険主義と言われています。ただノモンハン事件が停戦となった翌日9月17日にソ連ポーランドに侵攻(ドイツは9月1日にポーランドへ侵攻)開始していますから、なにか裏があったのか?という引っかかるものは残ります。



参考文献
 「ノモンハン戦争」田中克彦
 「世界史の中の満州帝国」宮脇淳子
 「WiLL」2009.9 『現代史を見直す』
参考サイト
 Wikipedia辻政信」「ノモンハン事件


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