GHQ憲法作成密室の7日間


 昭和21年(1946年)2月3日、GHQ総司令官マッカーサーはホイットニー民政局長を呼んでこういいました。

憲法改正草案の作成を命ずる」

 草案作成作業は2月12日までに終えるようにとの通達でした。わずか9日間しかありません。これには理由があり、日本の占領政策アメリカの独断になるのを懸念したソ連や英国が極東委員会を設置し、対日政策に口を出してくることが考えられたからです。
 マッカーサーは「象徴天皇」「戦争放棄」「封建制廃止」という三原則を提示しました。「戦争放棄」は幣原首相のほうから求めてきたという説がありますが、終戦連絡中央事務局次長の白洲次郎によると幣原の側近だった楢橋渡のデッチ上げだと批判しています。この三原則はOSSというCIAの前身である組織が昭和17年(1942年)6月に「日本計画」として提出したものと一致しているので、白洲次郎の言っていることが正しい。

 民政局では25人のメンバーが集められました。陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名で、弁護士資格を持つ者は3人いましたが、憲法の専門家は一人もいませんでした。

メンバーの一人、行政委員会 ミルトン・J・エスマン陸軍中尉
「とても興奮しました。しかし、同時に私は、このようなことはとても不幸なことだと思いました。なぜなら、外国人によって起草された憲法は正当性を持たないと思ったからです。私は、民主主義を理解している日本人を何人か知っており、彼等に自国の憲法を作らせるべきだと思いました。そして、そのことを上司に述べたのですが、採用されませんでした」

立法委員会 O・ホージ陸軍中佐
「興奮しましたが、私には憲法を作る能力も知識もなかったので不安でした」

ペアテ・シロタさん
「このときに、私はまだ22歳だった。憲法の専門家といったら、畏怖する対象でしかなかった。とにかく、私が憲法について知っている事といったら、高校の社会科で学んだだけのことだった」

 作業は密室の中で行われました。メンバーは第一生命ビルの最上階にあった簡易食堂でサンドイッチを立ち食いしながら朝方まで作業し、一旦宿舎に帰り、シャワーを浴び、一時間ほど仮眠しただけでまた定刻の午前8時には全員集まって作業を続けました。そして予定の9日より2日早く憲法草案が完成しました。

 白洲次郎は何か感じ取っていたようで民政局をうろうろして探りを入れていましたが、憲法草案を作っているとはさすがに気づきませんでした。GHQのG2のウィロビーもしきりに探りを入れていましたが、次郎が知らなかったということは情報を得ることができなかったのでしょう。

 昭和21年2月13日にこのマッカーサー草案は外務大臣官邸に提出され、憲法というより共産主義者の作文のような文章に日本側は仰天したのです。



参考文献
 講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
 新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)
 総和社「日本は憲法で滅ぶ」渡部昇一(監修)
 徳間書店ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)

添付画像
 連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)(PD)

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【印象操作】GHQ作成の日本国憲法を美化する媚米放送局(1/2)
http://www.youtube.com/watch?v=uKeJ5BzONOM

 外国人、しかも憲法の素人が日本の憲法を作ったことを称賛しているのだから、メディアがGHQの呪縛から逃れていないことがわかる。常識的に考えておかしいと思うはずだが、メディアを通じて日本国民はマインドコントロールにかかっている。

 シロタ女史はユダヤ人だが、これはマスコミが隠している。東京に移ったのは欧州で「反ユダヤ主義」が台頭してきた頃で、山田耕作がシロタ一家を東京に招いたのは「反ユダヤ」の迫害から救う目的もあった。戦前を全否定するマスコミの姿勢が伺える。