三・一運動から関東大震災へ

関東大震災の真実。


 1919年、日韓合邦時代の朝鮮半島で三・一独立運動が起こりました。運動というより暴動で放火などによる役場全壊19、一部破壊29、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、郵便局の全壊2、一部破壊9と被害が出ています。朝鮮人の死者は405名、負傷者903人。日本の憲兵死者2人、負傷者33名。山川の教科書には根拠のない朝鮮人死者7509名という数字が出ているそうなので注意が必要です。
 
 三・一独立運動は3月1日からはじまり、5月には終息していきました。しかし、この嵐は社会主義運動と合流し、内地に飛び火します。
 
「15万円強奪の不逞鮮人の片割れ 神戸にて捕はる」大正9年(1920年)2月11日 大阪朝日新聞
 現金輸送車を襲撃した不逞朝鮮人が神戸で捕まりました。社会主義運動の活動資金調達が目的の強奪。
 
「首相邸を襲はんとした鮮人の大陰謀 −−爆弾数個と陰謀書類」大正9年(1920年)4月17日神戸新聞
 3・1独立運動の記念の日に首相官邸を襲撃しようとして上海より爆弾を密輸したものの、時機を失い、露見。
 
「在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見」大正9年(1920年)10月9日大阪朝日新聞夕刊
 独立云々の不穏文書が配布されており、調べたところ、朝鮮人宅に爆弾数個を発見。
 
「変名して早大に入り上海間島方面と連絡をとる」大正10年(1921年)3月3日大阪朝日新聞夕刊
 上海の仮政府(大韓民国臨時政府)の要人が名前を変えて東京に入り込み、早稲田大学に入学して上海、京城、間島と連絡を取っていた。
 
 このころ、上海では独立運動を進めていた活動家、李承晩、呂運亨、金九などが大韓民国臨時政府をたちあげて民族運動というかテロなのですが、その一味が内地で上海と連携しながら活動していました。以下見出しだけ記載。
 
「不逞鮮人崔の自白から判明した事実/上海仮政府の計画も明察し、内地在住の一味も知れた」大正10年(1921年)11月11日神戸又新日報
総督府投弾の犯人は田中大将を狙撃した男」大正11年(1922年)5月20日大阪朝日新聞
「友禅職工に化けた不逞鮮人の一旗頭/上海仮政府の隠密/同志の統合に失敗し何れへか姿を晦す」大正12年(1923年)2月2日九州日報
「大仕掛けの武器密売 拳銃1万挺、爆弾90万発」大正12年(1923年)5月9日大阪朝日新聞

 そして大正12年(1923年)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震が発生します。横浜市内は壊滅状態となり、火災と余震に襲われ続けました。そんなとき不思議なことが起こります。
 
明治大正見聞史
「お向かいの家では、奥さんとお嬢さんとで雑巾を持って板塀を拭いていた。私はちょっとそれが不思議に思われたので失礼とは思ったが立ち止まっていた。奥さんたちは私に会釈して『まあ、おそろしいじゃございませんか。これが放火のしるしなんですと。そんな真似をされちゃたまらないから、今一生懸命消している所なんですよ』私はその印を見せてもらった。英語のKという字を左向きに書いたような、得体の知れぬ符牒だった。朝鮮の文字かもしれぬ、と後になってみながいっていた」

 東京市内(当時は東京市)でも大火災が起こっていましたが、9月1日の夜から2日以降も風上から突然火事が起こります。不審火は市内各所、牛込、四谷、市谷から起こり、多くは空家、小学校、印刷所、商業ビルでした。あちこちで放火が起こったのです。



参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「関東大震災」工藤美代子著
参考サイト
 WikiPedia「三・一独立運動」「李承晩」

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   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/25817795.html
添付画像
 関東大震災直後の丸の内(PD)
 
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