近衛上奏



 昭和20年(1945年)1月9日、米軍はルソンに上陸。2月11日、連合国によるヤルタ会談が行われ、ヤルタ密約が取り決められソ連の参戦が決定します。(日ソ中立条約の一方的破棄) 日本は知りません。このヤルタ密約の発表は1年後になります。

 2月19日、硫黄島に米軍が上陸。

 2月に入ってから重臣たちが昭和天皇にそれぞれ拝謁を行っています。近衛文麿は3年ぶりの昭和天皇への謁見でした。

「敗戦は遺憾ながら最早(もはや)必死なりと候。
 以下、この前提の下に申し述べ候。
  敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん 小さな傷)たるべきも、英米の興論は今日までのところ、国体の変更とまでは進みいらず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)したがって敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こるであるべき共産革命に候・・・」

 近衛文麿は勝利の見込みの無い戦争は一刻も早くやめ、共産主義革命に備えるべきとしています。これは戦況と内外政治情勢をみた的確な判断といえますが、ヤルタ密約を知らないのでソ連仲介を前提にした考えでしょう。おそらく米も講和には応じる気はさらさらなかったでしょう。昭和天皇近衛文麿の上奏にある程度同調されるものの、「もう一度戦火を挙げた上でないと、話はなかなか難しいと思う」と述べられています。陸軍らの動揺があるからです。近衛は「そのような戦果が挙げられるとはとても思えません」と述べます。ここで陸軍の動揺を抑える元帥にすべき人物として、阿南惟幾(あなみ これちか)大将の名前があがりました。
 
 この後、近衛上奏文がもとで吉田茂が逮捕されています。近衛文麿も結構危ない橋を渡ったといえます。
 
 このほか広田弘毅ソ連との戦争を回避するよう上奏しており、東條英機は断固たる抗戦論を述べます。梅津参謀総長は台湾に敵を誘導して一撃する論を上奏しています。
 
 こうした近衛文麿の動きは評価する向きもありますが、どうもこの人の言動はふらふらしており、終戦直後に昭和天皇の責任を口にしたり、東條英機の責任を強調したり、マッカーサーと二度会見し、憲法改正に乗り出したり、ということを行っています。そして反共の近衛はGHQ共産主義者のターゲットになり、戦犯指名され逮捕状がでると出頭を拒否して自殺しました。昭和天皇近衛文麿の自殺の報を聞き、たった一言「近衛は弱いね」とおっしゃったといいます。



参考文献
 「東条英機」太田尚樹著
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 「昭和天皇論」小林よしのり
 
添付画像
 近衛文麿(PD)
 
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昭和宰相列伝2 近衛文麿他 (1937-1941)
http://www.youtube.com/watch?v=74h-Pvya1Ow