情報を重視した日清戦争


 1894年、農民の反乱である東学党の乱が勃発し、6月1日朝鮮政府は清の派兵を要請していますが、日本は翌6月2日に在留邦人保護のために派兵を閣議決定しています。すばやい動きです。これは参謀次長・川上操六や外務大臣陸奥宗光がしっかりとした情報網をもっており、どうせそうなるだろうと準備万端だったからです。この頃は政治家が個人で情報網を作っており、伊藤博文などは情報網を持っていなかっため日清開戦に慎重だったようです。
 司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると川上はプロシャ主義に基づき、「平和」なときからの敵の政治情勢や社会情勢、それに軍事情勢を知っておかなければならないと考え、1884年(明治17年)からベトナムで清の軍隊の実情を調査させています。調査は福島安正、小島正保、小沢徳兵、小沢豁郎らに命じ、さらに青木宣純を南支に3年間潜伏させています。義和団の乱で活躍した柴五郎も北支に潜入させています。1887年(明治20年)には朝鮮の調査を行い、上陸地や輸送、戦略目標の選定などを行っています。

 日清開戦後、日本軍は成歓の戦い、平壌の戦い、旅順の戦いと連戦連勝。日本軍は開戦前から清国は眠れる獅子というのは真っ赤なウソであり、精強な兵士はせいぜい3,4万、それでも国家のために命をささげようなどというのはほとんどいない、ということを知っており、戦えば楽勝だということを知っていたのです。
 清国軍は若い男性を拉致して兵隊に仕立てています。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあり、兵に良民なしとも言いました。散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなります。だから督戦隊の監視下で団塊の状態で戦わされていました。かたまっていますから日本軍が砲撃しようものならひとたまりもありませんでした。また、清国兵は逃げれないように足を鎖で縛られたりしていました。こういった情報も持っていたことでしょう。

 なぜ、当時このように情報を重視したのか。御茶ノ水女子大の藤原正彦名誉教授はその答えを「危機感」と述べています。今の日本は核ミサイルを突きつけられていますが、どれくらい「危機感」を持って情報収集につとめているでしょうか・・・


参考文献
 歴史通WiLL2010・1月「国家の風格は”情報”にあり」藤原正彦
 「坂の上の雲司馬遼太郎
 PHP研究所坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著

参考サイト
 WikiPedia日清戦争」「川上操六」

添付写真
 川上操六(PD)


広島ブログ クリックで応援お願いします。