日露戦争無名の主役「石光真清」 〜 坂の上の雲

 日露戦争勝利の影の立役者の一人に石光真清(いしみつ まきよ)がいます。石光は明治維新の年に熊本の士族の子として生まれ、陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官となります。その後日清戦争に出征します。
 1899年、石光は軍籍を離れた形をとりロシア極東の戦略都市ブラゴベシチェンスクに留学します。義和団事件のときにロシア軍は清国の民間人3,000人虐殺し、アムール河に流しました。石光はこれを目撃しており手記に残しています。ちなみにこういう欧米の侵略話は戦前は「アジア侵略秘史」などの本にきちんと書かれていましが、戦後焚書され日本人の記憶から抹消されています。石光真清本人の書かれた本は先日、本屋でも見かけることができました。

 石光真清はロシアの満州侵略時に軍に呼び戻され、満州ハルビンへの潜入を命じられます。石光は馬賊頭目と結び、洗濯屋としてハルビンに潜入します。次に軍籍を抜いて写真館の経営者に身をやつしてロシア軍将校からの信頼を得、軍当局と東清鉄道の御用写真館としての地位を築き、ロシア軍相手の商売で多額の利益を得ます。石光はその資金を元手に、満州全土の写真館の支店を建設し、対ロシア諜報網を構築します。なんだかスケールの大きな話です。
 石光は日露開戦のその日まで満州各地の軍事施設や鉄道の路線図、物資の輸送能力に関する写真及び情報を陸軍参謀本部へと刻々と送り届けたのです。写真屋のおやじならカメラ片手にぶらぶらしても怪しまれないわけですね。

 石光は満州から引き上げ第二軍司令部付副官として召集され、再び軍服を身に着けて日露戦争に参加しました。石光がもたらした膨大かつ貴重な情報が児玉源太郎をはじめ首脳らに使われ作戦行動に結びついたのは言うまでもありません。

 石光真清はその後も軍の要請で三度満州にいき、そして帰国し、郵便局長となって静かな暮らしを始めました。しかし、ロシアにボルシェビキ革命が起こり日本はシベリアに出兵します。日本陸軍参謀本部は石光に白羽の矢をたててシベリアにおくっています。その後、満州移住水田開発事業にかかわり、隠棲し、昭和17年(1942年)になくなりました。

 ちなみに石光真清の妹の孫に橋本龍太郎がいます。


参考文献
 SAPIO2009/11/11「司馬遼太郎が描かなかった日露戦争『もう一人のインテリジェンス・オフィサー』」手嶋龍一
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇順子著
 「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二
参考サイト
 WikiPedia石光真清
添付写真
 盤道西方における日本軍重砲隊の戦闘 〜 国立公文書館より


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