白洲次郎だけでなかった。 昭和21年(1946年)3月4日、法制局の佐藤達夫第一部長は松本蒸治国務大臣から「翻訳を一緒に手伝ってくれないか」と声をかけられ東京第一生命ビルのGHQ民政局に足を踏み入れました。そこには終戦連絡中央事務局次長・白…
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