日本の第一次世界大戦参戦


 1914年8月23日、日本はドイツへ宣戦布告し、第一次世界大戦へ参戦することになります。私が受けた学校教育では日本が大陸の権益を広げるため、必要がないのに参戦して諸外国は不気味がった、そしてどさくさにまぎれて対華二十一か条を支那に飲ませた、というものです。多くの日本人はそう教えられたのではないでしょうか。よくまあこんな嘘っぱちを教えられたものです。

 英国はドイツが持っていた大陸の権益を日本が接収すると支那の反発を招くとして前向きではありませんでしたが、香港の防衛において日本がドイツに宣戦布告する前に支那大陸近海のドイツ仮装巡洋艦の捜索、撃滅を依頼しています。また英仏露は日本陸軍の欧州派遣を求めますが日本は断っています。ドイツへの宣戦布告に対してもかなり慎重でした。

 英国は同盟植民地に戦争協力させる必要がありました。オーストラリアのアンザック部隊(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)はヨーロッパへ向かいますが、ドイツのUボートがうろうろしています。このオーストラリアの船団をUボートから守ったのは日本海軍です。

 更に日本海軍は英国から地中海へ日本海軍の駆逐艦を派遣してくれと要請され、軽巡洋艦駆逐艦からなる8隻を派遣しています。地中海にはドイツのUボートがうようよおり、魚雷を装填して英仏伊の艦船を狙っていました。日本海軍はこの頃、対潜ノウハウも装備もなく無謀にも地中海へ乗り込みます。地中海ではいきなり英国の徴用客船「ペンシルバニア」を護衛中に駆逐艦「松」が魚雷を受け爆発。ペンシルバニアも魚雷を受け沈没という惨事となります。1917年5月よりUボートの魚雷攻撃に対して日本海軍は爆雷攻撃を行い、地中海で死闘が繰り広げられます。日本海軍は英仏伊その他の国籍200隻弱をエスコートしました。

 このほか、海軍は南洋諸島のドイツ領を制圧、陸軍は山東省のドイツ租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略し、戦後、山東省権益と、パラオマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島委任統治領として譲り受けることになります。当時は血を流した戦勝国が権益を得るのは極当たり前のことです。

 対華21か条などは中華民国袁世凱の自作自演であることがわかっています。

 もう嘘っぱちの歴史はたくさんですが、加藤陽子東大文学部教授が書いた「それでも、日本人は戦争を選んだ」(朝日出版社)というトンデモ歴史本が出版されており、「WiLL」2010.1『近代史を見直す3』で徹底的に批判されています。この本は高校や中学の講義の基本となっているそうですから、嘆かわしいことです。私は読んでいませんが、加藤氏の本は岩波出版の「満州事変から日中戦争へ」を読んだことがあり、批判は当然でしょう。講義を受ける生徒たちがかわいそうです。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」『極東の島国が守った地中海』兵頭二十八
 「WiLL」2010.1『近代史を見直す3』西尾幹二・福井雄三・福地惇。柏原竜一
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二

参考サイト
 WikiPedia第一次世界大戦下の日本」「対華21ヶ条要求」「ANZAC」

添付写真
 地中海に派遣された巡洋艦明石(PD)


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