壬午軍乱での日本人被害を抹消

日本人が被害を受けたことは知られたくない!


 明治15年(1882年)に壬午軍乱がおきます。李朝は新式の軍編成を行い、日本軍人の堀本少尉を教官にして訓練を行いました。これには装備が旧式のままの古兵が不満を持ちます。さらに俸給米の支給が滞っており、役人の不正が発覚したため、古兵が暴動を起こしたものです。
 
 梅田正巳著「近代日本の戦争」では以下のように記載されています。P60


 憤激して決起した兵士たちに一部民衆も加わった反乱軍は、大院君にけしかけられ、王宮を襲って閔妃一族の重臣を殺害するとともに日本公使館に押しかけました。朝鮮での最初の反日行動です。公使館では少数の武官と警官で防戦しましたが、とうてい防ぎきれないと見て、夜半、自ら公使館に日を放ち、花房義質公使以下、仁川に脱出します。そこでも兵士らに襲われましたが、運良く停泊していたイギリス船に襲われ、日本に戻ったのでした。

 
 ここに大きな事実の抹消があります。日本人に死傷者が出たことです。「日本憎し」の歴史家らは、何かと日本人が被害を受けた事実は書かないようにするか、申し訳程度に書く傾向が見られます。この事件で王宮にいた堀本少尉は殺害されています。朝鮮のために新式の軍事調練を指導した人が殺されたのですよ!普通書くでしょう。他にも語学留学生や巡査など数名も殺されています。※1 梅田氏の記載を読むと日本人はほとんど死傷者が出なかったような印象を持つでしょう。あくまで日本人は加害者でなければならず、被害者であってはならないということでしょう。
 
 また、梅田氏タイプの歴史家は朝鮮人の乱暴さも隠す傾向にあります。朝鮮滞在のロシア官僚はこの軍乱のときの様子を次のように語っています。

「朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の部隊と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血がやまなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に適としなくてすむように、彼らはまず後者に襲いかかった。日本大使館の建物は、突撃により占領されて全焼し、日本人の大半が殺害され、ハナブサ公使を含む少数の人々は命からがら済物浦へ逃れて、そこからは英国船で祖国へ向かった」※1

 凄まじかったことがわかります。ただ、大使館の大半が殺されたというのはオーバーです。また、放火は日本側が脱出の際に放ったものです。それでも8日間も続いたといっています。梅田氏は江華島事件は3日にわたった「戦争だった」(P51)と書いていますから、これも8日にわたった戦争だった、と書かなければならないはずです。朝鮮人が仕掛けた大戦争です。でも「兵士たちの反乱」と書いています。まったく歪んでいます。



※1 文春新書「韓国併合への道」呉善花著 を参考


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 大院君(PD)

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