チベットと日本人

 初めてチベットに日本人が訪れたのは1891年のことで河口彗海というお坊さんで、原初的な仏典を求めてチベットに入国し、ダライ・ラマ13世に謁見しています。河口彗海は1903年に帰国し、「西蔵旅行記」を刊行します。この書は一躍人気となり、本当に彼がチベットへ行ったのか、という真偽論争まで巻き起こったそうです。

 青木文教は仏教大学(現・龍谷大学)大学院生のときに西本願寺法主大谷光瑞の命でチベットに派遣され、1912年(大正元年)にラサ入りを果たします。ダライ・ラマ13世の信頼が厚く、チベット国旗(雪山獅子旗)をデザインしたといわれています。(異説あり)

 矢島保次郎は1911年にラサに入り日本との提携を説いて回ります。元日本軍人として日露戦争に従軍していた経験を買われ、チベット軍の軍事顧問に招かれ、ダライ・ラマ法王の目にとまって法王の親衛隊長まで務めました。日露戦争がアジア、アフリカに与えた影響は大きく、チベットも例外ではなかったのでしょう。アジアで唯一西洋に対抗できる力を持った国は日本だと見ていたと思います。残念ながら日露戦争の間に英国はチベットに影響力を持つようになっており、矢島保次郎は英国の圧力により1918年に日本に帰国することになります。

 多田等観は日本に留学していたチベット僧侶の世話役を務め帰国する彼らに付き添ってチベットへ渡りました。ダライ・ラマ13世は多田をチベット三大寺院のひとつ、セラ寺に預けて、国際情勢の説明役の地位を与えました。
 後に、日本が英米と対立をして禁輸によって苦しめられたころ「同じ仏教国が苦しい思いをしているのは看過できない」として米国に売却予定だった羊毛を日本へ大量に送っています。日本と連合国の開戦後に連合国から支那への物資輸送ルートを要求したときもチベットは拒否しています。これはチベットへ渡った日本人が肯定的に捉えられたほか、多田等観らが日本にきたチベット僧侶に好印象であったからだといわれています。

 我々はこうしたチベットと日本人の歴史にも目をやり、現在、チベット人が置かれている状況を考えようではありませんか。




参考文献
 「チベット問題を読み解く」大井功著
 オークラ出版「世界に愛された日本」『チベットと日本の百年の友情』ペマ・ギャルポ
 オークラ出版チベット大虐殺の真実」『日本=チベット化の跫音が聞こえる』水間政憲
参考サイト
 WikiPedia「青木文教」「チベットの旗」


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