芝居じみていて妖精が住む国、日本

外国人は芝居セットの中の妖精をみた。




 イギリスの詩人、ジャーナリスト エドウィン・アーノルド 明治22年(1889年)
「寺院や妖精じみた庭園の水蓮の花咲く池の数々のほとりで、鎌倉や日光の美しい田園風景のただ中で、長く続く早朝な杉並木のもとで、神秘で夢見るような神社の中で、茶屋の真っ白な畳の上で、生き生きとした縁日の中で、さらにまたあなたの国のまどろむ湖のほとりや堂々たる山々のもとで、私はこれまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野さとから救われた気がしているのです」

 幕末から明治にかけて来日した外国人の日本観察の言葉には「妖精」という言葉がしばしば登場します。

 日本研究家 東京帝国大学名誉教授 バジル・ホール・チェンバレン 明治6年(1873年)来日
「古い日本は妖精の住む小さくて可愛らしい不思議の国であった」

 アーノルドは庭園が妖精じみているといい、チェンバレンは小さな日本人が妖精のようだと述べています。フランスの青年伯爵リュドウィク・ボーヴォワルは慶応3年(1867年)に来日し、日本は妖精風の小人国(リリパット)と表現し、「どの家も縦材でつくられ、ひと刷毛(はけ)の塗料もぬられていない。感じ入るばかりに趣があり、繊細で清潔かつ簡素で、本物の宝石、おもちゃ、こびと国のスイス風牧人小屋である」と書いています。

 イギリス公使の妻として明治21年(1889年)メアリ・フレイザーは長崎で菓子売りの男性を見て、6ペンス払って身代わりになってみたかったと書いています。
「その男のいでたちときたら、印象派風で涼しいブルーの木綿地に、あまり目立たない巧みな筆致がほどこされ、後はただ褐色のからだとワラのサンダルだけでした」「彼は雪のような白木とデリケートな紙で作られた妖精のお厨子を担いでいた」

 明治17年(1884年)からたびたび日本を訪れていたアメリカのイライザ・シッドモアは日本人の日常を芝居のようだと書いています。
「日本人の日常生活は芝居じみていて、舞台用の美術・装飾的小道具があふれ、とてもまじめな現実のものとは思えない。道路も店も芝居のセットのようで、丹念に考えられた場面と細心に配置された人の群れからなっている。半ば無意識に観客は、ベルが鳴って開幕してやがてその幕が下りるのを待つのである」

 ローエル天文台の建設者パーシバル・ローエルは明治10年代の「東京のブロードウェイ」の夜店を「買い物客の楽園」と感じ妖精の火にも似た照明」で照らされた夜店の美しい瀬戸物や紙入れや扇、骨董品、花市をみて「ひどい買い物熱にうかされてしまう」と述べています。

 西洋人にとっては西洋の持っている近代文明は明らかに優位と認識しつつも、それとはまったく別次元の精錬された文明文化が存在していたという驚きがあり、小さな日本人とその文化は芝居じみていて妖精のように見えたということでしょう。

 旅行家のイザベラ・バード(明治11年(1878年)来日)は日光の金谷邸で宿を取りました。金谷カッテージ・イン、現在の日光金谷ホテルです。
「金谷は神社の耳障りな音楽の楽団長をしています。が、職務はあまりなく、家や庭をいつも美しくするのが主な仕事です。母親はとても徳の高い老婦人で、この母親と、私の知っている日本人女性のなかでは最も優しくて上品な妹が金谷と同居しています、妹は家の中を妖精のように軽やかに動きまわり、その声は音楽の調べのような音色をしています」

 女性は三味線を弾いたり、生花をしたりと教養を身につけるためにめまぐるしく動きます。その姿をバードは「妖精のように動く」と感じたのです。バードは女性の動きをよく観察しており、宿舎で「少女が部屋に入ってきて微笑しながらお茶を持っていた」と描写したり、女性の馬子を「大きな雨傘をかぶり、ぴったりとした青いズボンの上に着物を帯でしめた女性たちが、馬に積荷をし、馬をひく」と書いています。東北の風景の中に溶け込む妖精のような女性たちに魅せられたのでしょう。



参考文献
 平凡社ライブラリー「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 講談社学術文庫イザベラ・バード日本紀行」イザベラ・バード(著)/ 時岡敬子(訳)
 平凡社ライブラリー「イザベラバードの『日本奥地紀行』を読む」宮本常一(著)
 双葉社「江戸明治 遠き日の面影」
参考サイト
 金谷ホテル http://www.kanayahotel.co.jp/index.html

添付画像
 日下部金兵衛の着色写真 琴と三味線(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。