江戸時代、武士より町人が強かった!?

武士は町人に平身低頭だった。




 江戸時代、武士はいばりくさって、農民、町人から搾取したようにいわれてきましたが、実際、武士は借金まみれで、貨幣経済を握っていた町人に頭があがりませんでした。では武士は何にお金を使っていたのでしょうか。

 加賀藩御算用者である猪山家の家計簿を分析した磯田道史(著)「武士の家計簿」によると猪山家は借金を整理し、家計を切り詰めても祝儀交際費や儀礼行事入用は圧縮されていないと指摘しています。年間総支出2862匁(もんめ)(現代感覚約1142万円)のうち354匁(約141万円)使っており、支出の12%を占めています。また、借金するくらいなら家来や下女を雇わなくてもいいはずですが、雇ったままです。このほか寺社祭祀費80匁(約32万円)使っています。現代感覚からするともっと切り詰めればいいのにと思うでしょう。実はこれらは「武士身分としての格式を保つために強いられる費用」であって、これを支出しないと武家社会では確実にはじき出され、生きていけなくなるのでした。

 猪山家は町人、役所、親類、家中、村方などから借りていました。零細な幕臣にお金を貸していたのは「札差(ふださし)」でした。札差は旗本や御家人の蔵米を売却して現金化することを行なっていました。「札」は蔵米の受取手形のことで、それを割竹にはさんで米俵に差したことからその名がつきました。株制、いわゆる公認であり、享保9年(1724年)には109株ありました。そして幕臣はお金に困ったら、蔵米を担保にして札差にお金を借りるのです。

 旗本、御家人に窮状ぶりは惨憺たるもので、ある幕臣は冬には夏物衣料や夏の道具をすべて売り払って、冬物をそろって夏になるとその逆を行うという自転車操業を続けていたというのがあります。幕末に勝海舟が語った中に「元、剣術の師匠をしている時には、あの金棒引きなどがお弟子サ。みンな元は良い身分で道楽して落ちたものだが、その嬶(かかあ)には、密売をさせるのサ」とあり、窮状した幕臣が妻に売春させたとあります。

 こうなってくると札差の立場は強いもので、借金の申し込みに訪れた幕臣は町人である札差に平身低頭であり、札差は手代や番頭に対応させるという無礼、高圧的態度に出ました。武士の面目はまる潰れでした。そこで、武家復権を目標として「寛政の改革」が行われました。寛政元年(1789年)に棄損令を出し、5年以前の借金はチャラにしたのです。さらにここ5年の借金の金利を引き下げました。江戸版モラトリアムです。ところが今度は札差が貸し渋りしだしたので、さらに幕臣たちは金詰まりになっていったのです。

 大名も借金だらけであり、大商人からお金を借りるのに、家老や留守居役に町人の一同を接待させるのです。そして依頼を受けた町人たちは誰がいくらいくらとそれぞれの出資額を決めていました。意図的に借金を踏み倒す大名もおり、それをやってしまうとその大名は町人の間で信用力ゼロ、となります。また大名貸しの焦げ付きで倒産する大商人までいました。

 小倉小笠原家(15万石)では有力両替商・播磨屋に両替御用達を依頼するのに、主人を屋敷に呼びつけるのではなく、役人を先方に出向かせてます。最初からもう下手に出ているのです。そして播磨屋は資金運用を引き受ける代わりに「金銀御用達之儀は御断申上候」と条件をつけました。資金運用はやるけど、カネは貸さないよ、と言っているのです。小笠原家は信用力ゼロの大名だったのです。さらに武家屋敷に常駐させる手代は平服で勤務するし、小笠原の役人の指示は受けない、正月に主人が挨拶に行く義務はない、というような条件をつけました。小笠原家の殿様は播磨屋の主人にお目見えできない、ということです。小笠原家はこの条件をあっさり認めました。大名と町人の力関係がわかる話です。

 このように江戸時代は貨幣経済を握っている町人が一番強く、武士はその下だったわけです。明治維新で武士はあっさり身分を捨て、大きな混乱がおきなかったというのは、武士という職業がまったくお得な職業ではなかったためというのも理由の一つのようです。



参考文献
 新潮新書武士の家計簿磯田道史(著)
 日経プレミアシリーズ「江戸のお金の物語」鈴木浩三(著)
 双葉文庫「時代小説 江戸事典」山本眞吾(著)
添付画像
 会津若松武家屋敷跡(PD)

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