国旗掲揚、国歌斉唱時の起立は当たり前

当たり前のことをこうしてやらなければならないのですから、日本の病巣の深さがうかがえます。


インドネシアで府職員らと君が代歌う 橋下知事
2011年6月17日

 インドネシアを訪問中の橋下徹大阪府知事は16日、視察先のジャカルタ市内の中高一貫校でスピーチし、府議会で成立した教職員に君が代の起立斉唱を義務づける条例について「日本には国歌を起立して歌わない先生がいる。クビにしようと考えているが、日本で大変な問題になっている」などと訴えた。

 橋下知事は同校幹部や教職員、生徒らを前に「戦争を思い出すから日の丸、君が代は嫌だという先生がいる。この学校では座って(国歌を)歌う先生を許さないと思う」と主張。同校幹部も「辞めさせるべきだ。私が日本に行って先生を立たせる」と応じた。

 スピーチを受けて、同校生徒らが急きょインドネシア国歌を披露。知事は「僕たちも歌おう」と随行の府職員らを促し、ともに君が代を歌った。(ジャカルタ=坪倉由佳子)

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201106170021.html 朝日.com

>「戦争を思い出すから日の丸、君が代は嫌だという先生がいる。この学校では座って(国歌を)歌う先生を許さないと思う」

 「戦争を思い出す」という先生は日教組の先生だと思いますが、どういう記憶、歴史がインプットされた人なんでしょうね。

 日本では古来より太陽を信仰しており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子…」で始まる手紙を送っていることから、太陽を強く意識しています。文武天皇の701年の朝賀の儀で正月元旦に儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれています。この頃は、太陽は黄色または金色で描かれており、平安時代には「赤地に金丸」であったと考えられています。
 源平合戦のとき平氏が「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使い、源氏が勝利したため、「白地赤丸」が定着したようです。戦国武将の武田信玄日章旗を使っていたのは武田家が甲斐源氏の流れをくむからであり、現存最古の日章旗山梨県甲州市の裂石山雲峰寺に残されています。※1

 豊臣秀吉朱印船貿易でも日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられました。また、戦国武将の伊達氏も軍旗・日之丸大龍を用いていました。江戸時代には徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどしています。

 私の手元に沖縄学の父と呼ばれた伊波 普猷(いは ふゆう)氏著の「沖縄歴史物語」がありますが、表紙カバーに琉球王国の船が描かれており、この船は日の丸(黄色地に赤)が掲げられています。日の丸は、沖縄でも太陽神(テダガミ)の象徴として、船印だけでなく首里王府が建てる石碑(玉陵の碑文など)にも刻まれているといいます。沖縄にはアマミキヨ伝説があり、これは本土の海部氏が渡っていったと思われ、信仰もそのとき広がったと思われます。※2

 このように日の丸は日本の伝統的に受け継がれてきたものです。国歌「君が代」も古今和歌集から採用されており、これも伝統からきています。明治維新以降、「国歌」は外交儀礼上欠かせないので、曲をつけて「国歌」の扱いにしました。朝日の記事ではインドネシア国歌のあとに「君が代」を知事らが歌っていますが、こうした場では相手の国の国歌斉唱があれば、こちらからも国歌を斉唱するのが外交儀礼です。もちろん「起立」して相手国の国歌を聞き、そしてこちらの国歌斉唱時も「起立」して歌うものです。日の丸君が代が大嫌いな先生はこうした場でも座って口を閉ざすのでしょうか。日教組の先生方は「強制」が嫌だとも言っていますが、当たり前のことがきちんと出来るように「強制」というより「矯正」ですね。



※1 最古の日章旗山梨県甲州市(旧塩山市)の裂石山雲峰寺所蔵
    甲州市観光協会 http://www.koshu-kankou.jp/takeda/index.html
※2 沖縄人はいつどこから来たか http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110530/1306757373

添付画像
 琉球王国の船旗(PD)

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