恩義を忘れないフィリピン人

日本とフィリピンの共通性があった。


 昭和16年(1945年)12月8日、大東亜戦争・日米が開戦し、日本軍はフィリピンに進攻します。翌17年5月7日にはコレヒドール島を攻略します。ミンダナオ島の米比連合軍3万もシャープ総軍ほか6,000名が戦線を離脱し、日本軍に降伏しました。このミンダナオ島におけるフィリピン軍の最高司令官はマヌエル・ロハス将軍(後、フィリピン大統領)で抗戦の構えをみせましたが、結局、降伏しました。
 ロハス将軍は捕虜収容所に入れられ、その監視の任に神保信彦中佐がつきました。

 ロハス将軍
「私はフィリピンの人間である。現在、私たちは祖国の自由と独立を勝ち取るために、戦い続けている。それは、戦争の結果がどう出るかとは何ら関係がない。しかも、その決着はいまだに出ていない。最後の審判は下りていないのです。当今の状況だけを見ると、わがフィリピン軍の勝算はほとんどない。わが国民は飢えと痛みも心もボロボロになってしまっている。この状況をいかに打破するかと思い悩んだ結果、貴国の軍隊が私ならびにわが国民を正当かつ公平に処遇するものと信じることにした。よって、自分の体をあなた方に預けると決心したのである」

 神保中佐はロハス将軍と接するにつれ、その生き方や考え方、指導性に対し、称賛し、次第に将軍に対する尊敬の念を深めていきました。ロハス将軍は処刑されることになっていましたが、神保中佐はロハス将軍はフィリピンのみならず日本軍にとっても重要であり、命を奪うことは無益であることを生田司令官に進言します。生田司令官は神保中佐を伴い、マニラへいき、将軍の処刑の再考を促しました。その結果、処刑は取りやめとなり、ロハス将軍はフィリピン人捕虜の指揮官となり、収容所を管理する権限が付与されました。

 戦況が日本軍に不利になると神保中佐は北支方面へ転属となります。大東亜戦争終結後、ロハス将軍はフィリピン大統領に就任しました。このとき、ロハス大統領夫人あてに神保中佐の夫人から手紙が届きました。神保中佐は戦犯として支那の強制収用所に抑留されているというのです。ロハスは直ちに蒋介石あてに助命嘆願書を送りました。ほどなく神保の釈放が決まりました。
 神保中佐はその後、日比友好に尽力し、昭和53年に他界しました。平成5年(1995年)には第12代フィデル・ラモス大統領から、ロハスを救った行為に対する表彰状が、未亡人と長男に手渡されました。

 フィリピン人は恩義を忘れない国民といいます。フィリピン独立のため戦ったアギナルド将軍の要請を受けて日本からフィリピンに武器弾薬を運ぶ途中に船が遭難し、殉職した増田忍夫近衛兵曹長という日本人がいます。殉職から79年後の1978年(昭和53年)にマルコス大統領がフィリピン独立記念日に増田忍夫の遺族を招待し、フィリピン独立功労者として最高級の礼で遇したこともあります。
 フィリピン人画家のダニエル・ディソンさんの著書を読んでいると、日本軍の飛行機が墜落したとき、搭乗していた日本軍パイロットを墜落した場所の村人が助け、日本軍へ送り届けた話が書かれています。それで日本軍の司令官が大変感謝し、村に贈り物をして、その村から食糧を徴発しないように手配しました。ディソン氏は日本人の恩義に対する心というのは賞賛に値する、と書いています。「恩」を大切にする両国民の共通の価値観が伺われます。



参考文献
 「フィリピン戦線の日本兵」A・P・サントス(編)/瓜谷みよ子(訳)
 「フィリピン少年が見た カミカゼ」ダニエル・H・ディソン(著)
参考サイト
 地球史探訪:日比友好小史 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog331.html

添付写真
 自転車に乗り移動する日本軍(PD)

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