ヒーローが敗れた日 〜 フィリピン戦
アメリカは絶対的ヒーローだとマインドコントロールされたフィリピン人。
昭和16年(1941年)12月8日、日本軍戦闘機34機、陸攻53機がフィリピンのクラーク飛行場を、戦闘機51機、陸攻53機がイバ飛行場を襲い、アメリカ軍はB−17 18機、P−40 53機、P−35 3機、その他25ないし30機を喪失しました。
この12月8日の日、後に画家となったダニエル・H・ディソンさんアンヘレスの町に居り、朝はたくさんのアメリカ軍の飛行機が飛んでいましたが、昼には皆クラーク飛行場に着陸し、静かになったと述べています。昼食を終えてディソンさんが立ち上がると突然地面が揺れ、窓がガタガタと鳴り出しました。
ディソンさんの祖父は叫びました。その後にゴーという低い轟音が聞こえてきて、続いてポップコーンが破裂するような音が立て続けに空から聞こえてきました。そして皆が窓に駆け寄って空を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、はるか上空に爆撃機の編隊が二つ見えました。日本軍機です。ディソンさんの祖父はこう叫びました。
「なぜ日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本はずっと遠くにあるはずじゃないか。それなのに日本の飛行機がどうしてここまで来れるんだ」
ディソンさんは「私は日本軍をとっても恐れてはいました。しかし、その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。何しろ決して敗れないはずの白人を、私たちと同じアジア人の日本人がやっつけているのですから」と述べています。 しばらくすると零戦がアンヘレスの町の低空を飛行していき、中には非常に低い高度で機体を傾けて町を見ながら飛んでいるパイロットもいて、ディソンさんはその白いスカーフをはっきりと覚えていると述べています。
この頃、フィリピンはアメリカの植民地であり、フィリピン人にとってアメリカ人はヒーローでした。学校では英語が教えられアメリカ式教育が行われていました。子供が読むマンガはすべてアメリカのもので、ヒーローたちは皆アメリカ人でした。スーパーマン、バットマン、キャプテンアメリカ・・・フィリピン人のヒーローはひとりもいませんでした。絵を描くのが好きだったディソンさんはアメリカ人のヒーローを描いて遊んだといいます。他にもアメリカの船やアメリカの兵隊を書いていました。アメリカの軍人たちを尊敬し、アメリカのヒーローたちは決して打ち負かされないと信じていました。しかし、12月8日にたったの一撃でアメリカは同じアジア人に完全に敗北したのです。ディソンさんは驚きが密かな賞賛へ、そして畏敬へと変わったと述べています。
日本軍第14軍の一部は12月8日に離島のバタン島、10日にルソン島北端のアパリとビガン、12日にルソン島南端のレガスピーに上陸し、翌年の1月2日にマニラに無血入城します。日本軍はバターン半島攻略に乗り出しました。米軍司令官のダグラス・マッカーサーはコレヒドール島から脱出してしまい、4月19日にバターン半島が攻略され、5月7日にはコレヒドール島が陥落し、アメリカ軍は無条件降伏しました。
ディソン氏
「クラーク飛行場の爆撃よりもさらに大きな衝撃だったのは1942年にバターンの戦闘に破れたアメリカ兵の捕虜たちが両手を上げ、アメリカ兵よりもずっと小さな体の日本兵に銃剣を突きつけられているところを見た時でした。
私はすぐにはその光景を信じることはできませんでした。
しかしこの時こそが、フィリピン人が民族主義に目覚めたとても重大な時だったのだと思います」
参考文献
「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
「フィリピン少年が見た カミカゼ」ダニエル・H・ディソン著
参考サイト
WikiPedia「フィリピンの戦い」
添付画像
コレヒドール島で降伏するアメリカ軍(PD)
フィリピン戦記 (No0204)
http://www.youtube.com/watch?v=tIc9ZlDJwpY