武士の娘の嫁入り

武士の時代、女性は家と家をつなぐためひどい扱いを受けていたのか?


 長岡藩城代家老を務めてきた稲垣家の六女、杉本鉞子(えつこ 明治5年生まれ)は12歳のあるとき母に呼ばれてこう告げられます。

「エツ子や、神仏のお守りあって、お前の嫁入り先が定まりました。兄上はじめ皆々様のお計らい故、よくよくお礼申し上げなさい」

 鉞子は兄の知り合いでアメリカに住んでいる商人の松雄という人との結婚が決まったのです。そして結納となり、花嫁修業を経て、学校に行き、アメリカに渡るのです。現代人から見ると信じられないでしょう。当時の婚姻は家と家の結びつきでした。現代人はマルクス主義史観で洗脳されていますから、女は家に縛られ、夫に支配され虐げらていた時代だ、なんとひどいことよ、と思うことでしょう。しかし、この時代は家と家の結びつきを強くして相互に助けあわなければ生きていけない時代でした。寿命は短かったし、今のように豊かで国家が個人個人を保護できるような時代ではありません。その時代にあった「幸福」を求める仕組みがあったわけです。また、女性の地位というのは今で言われているほど低いものではありませんでした。

 アメリカに一人で渡り嫁ぐというのも驚くことでしょう。この頃の日本女性は定められた家に嫁いで一生を終わるものと教育されていました。結婚式の白無垢はそれまでの実家での人生は一旦死んだものとして、新たな人生を生きるという意味が込められています。こういう日本の古くから伝えられている慣習というのはひとつひとつすべて意味を持っており、それはしっかり受け継がれていました。ですから、鉞子は嫁ぐことに「覚悟」を決めて見知らぬアメリカ、見知らぬ夫へ嫁いでいったわけです。また、現代のように結婚というのは自分が幸せになる、という自分本位の考えではなく、「家族全体の幸福に責任を持つ」のが結婚でした。

 とはいえ当時の女性は結婚したからといって実家とのつながりが途切れたわけではなく、結婚は家と家の結びつきで助け合うわけですから、強いつながりを持っていました。加賀百万石の御算用者という会計役、猪山家の家計簿を分析した「武士の家計簿」によると嫁は初産は実家で行っています。出産費用というのは当時もバカにならず、実家が負担しています。小遣いもたびたびもらっています。死んで葬られるときも実家の姓もあわせて墓石に刻んだといいます。

 さらに武士の時代は寿命が短いから死別が早い。また、離婚も多く、その場合は女性は再婚もしていました。「貞婦は二夫にまみえず」というのは全くのウソです。このあたりはおそらくタテマエと現実というのがあり、嫁は他家に嫁いだら生涯を嫁ぎ先で送るというタテマエはあるものの現実、死別が多いし、家族とうまくいかないものは離婚するしか仕方がない、という感じだったのでしょう。夫と妻の財産は結婚当初より別れており、実際には結婚は家と家のことですから、離婚も双方の実家や親戚らが介入して話し合われていました。
 三下り半という離縁状があり、よく夫が好き勝手なときに書いて、妻を追い出せた、それができないときは駆け込み寺しかなかった、といわれていますが、武家の場合は藩に届ければよく、離縁状の制度は農民、町人のものだったようです。離縁状があると妻は再婚ができるというプラスの面もありました。離縁のとき、夫が相応のお金を妻に持たせることもあります。妻から夫へ離縁状を出す特別な場合もあり、最近、新潟県十日町市では江戸時代に妻から夫に出された離縁状が発見されており、100両を慰謝料として払っています。

 山川の高校歴史教科書
「近世社会では多くのことが家の単位に考えられ、家のなかでは、家長である男性の権限が強く、家長のあとをつぐ長男(家督)の立場は弟たちよりはるかに強かった。結婚は家の存続のためにむすばれるものと考えられていたから、妻の地位は低く男尊女卑の風が強かった」

 学校では「家督」中心において支配者と被支配者という二元的なものの見方をして、マルクス主義史観の刷り込みをやってきているということですね。



参考文献
 「武士の娘」杉本鉞子著・大岩美代訳
 「武士の家計簿磯田道史
 「もういちど読む 山川 日本史」五味文彦・鳥海靖 編
参考サイト
 WikiPedia「離縁状」

添付画像
 日下部金兵衛の「結婚」(PD)

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