武士の結婚

昔はむちゃくちゃ結婚だったの?


 長岡藩城代家老を務めてきた稲垣家の六女、杉本鉞子(えつこ 明治5年生まれ)の著書「武士の娘」では鉞子の兄が結婚当日に家出してしまいました。家の女中をしていた女性と恋仲になり、父と衝突したためです。このとき、鉞子の兄が結婚する予定だった女性は、兄が家出したその日、すでに花嫁の籠に乗って実家を出発していたため、そのまま稲垣家に入ります。しかし、彼女は帰らず、稲垣家の娘として適当なところへ縁付けるため世話をしています。現代では驚く話でしょう。

 この頃の結婚というのは家同士のものでした。家と家の結びつきを強くし、互いに助け合うことで存続していました。金融面の助け合いもありますし、連座制といって不祥事があると親族全体に類が及ぶので情報交換を密にしていました。また、この頃の人間は寿命が短いので当主が早死にしたりすると幼い遺児が家督を継ぐことがあり親戚たちにより作法やしきたりを伝授していました。何も人の自由を縛ったり制限するのが目的ではなく、ちゃんと理由があったわけです。現代ではここのところを教えませんね。

 また、家と家の結びつきの結婚といえども、嫁が嫁ぎ先の家族とうまく行かねば話にならないでしょう。ですから「お試し期間」というのがあったのです。
 加賀百万石の御算用者という会計役、猪山家の家計簿を分析した「武士の家計簿」によると結婚に無理がないかどうかを確かめるために、何度も嫁が嫁ぐ予定の家を訪問し、宿泊したり、半月同居してみたりしていたのです。別の話だと四ヶ月同居した話もあります。つまり「結婚しつつある」状態が存在していたわけで、この期間に夫とその家の人と交流して確認し、熟したら嫁ぐというやり方です。
 前述の鉞子の兄の場合、「お試し期間」が存在したかどうか鉞子自身が幼かったため前後の記憶がないと書いており、定かではありませんが、そのまま稲垣家に入ったということであれば、嫁としては結婚相手が居なくなってしまったのは悲しいが、お試し期間を経て覚悟を決めて他家に嫁いだのだし、既に親しくなった家族が迎え入れてくれたので、踏みとどまれた、となった可能性が高いです。
 現代ではこうした結婚は女性を縛るもの、個人の自由や権利を奪うものとして語られているでしょう。これは家や夫が女性を縛り支配する、というマルクス主義史観というフィルターを通して語られているのだと思います。当時は当時で人々が最大限に幸せになれるように「家」という単位があり、「家」と「家」の結びつきを強くし、助け合いによって「家」を存続させていったのです。そこには親戚同士の心の通った交流や「お試し期間」のような姻戚を結ぼうとする両家の交流、婚約者同士の交流がきちんと設けられていたのです。これは一種の種族保存本能から来る仕組みであって自然の理にもかなったものでありましょう。



参考文献
 「武士の娘」杉本鉞子著・大岩美代訳
 「明治人の姿」櫻井よし子著
 「武士の家計簿磯田道史

添付画像
 「日本の習俗のホールド・オン・ミー」からの写真、1867年ロンドン(PD)

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