やはり消した日本人被害の歴史

日本人被害の歴史は徹底的に隠します。

 梅田正巳著「近代日本の戦争」は日本の駐兵や出兵が正当なものかを検証していますが、「関東軍満州駐兵と満州事変」(P91)の箇所で以下の3点の歴史を抹殺しています。

 昭和2年(1927年)3月 南京事件
 昭和2年(1927年)4月 漢口事件
 昭和3年(1928年)4月 済南事件

 いずれも日本人が被害にあった歴史です。こういうのは消さなくてはならないと考えたのでしょう。梅田氏にとって日本人はあくまで加害者でなければなりません。本来、梅田氏の主旨からいって少なくとも「済南事件」は日本軍と蒋介石軍が衝突していますから、その駐兵、出兵について検証がなければなりません。意図的に消したとしか思えません。

−−−−−南京事件とは http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21408195.html
 1926年7月からソ連の莫大な援助をもとに蒋介石は北京軍閥政権張作霖の打倒を目指した北伐を開始します。翌年2月には漢口、3月には南京に達します。蒋介石は4月に上海クーデターを起こし、南京に国民政府を樹立しました。

 3月の南京占領の際に日本領事館は突然、支那兵に襲われます。館内は領事夫妻を始め領事館員の家族や武官、南京市内の日本人が避難していました。金庫はハンマーで叩き壊され、領事夫妻に向かって鉄砲が撃たれました。女性は服を剥ぎ取られ裸にされ金目のものを持っていないか確認され、子供たちは泣き叫び、地獄絵図となりました。領事館に居た荒木大尉一行は武器を持っていなかったため、茫然と見ているしかなく、後に荒木大尉はそれを恥じ「申し訳ない」として自決することになります。
 日本領事館では死者が出なかったので幸いでしたが、英、仏、米の領事館、民間人には死者が出ていました。そのため、揚子江の英の軍艦は南京城内へ砲撃しています。しかし日本の軍艦もいたのに何もしませんでした。なぜなら幣原外交は弱腰で「支那を刺激しないように」という訓令があったためです。幣原外交は「日支友好」「不干渉主義」です。こうした外交は支那の対日政策を増長させていき「ちょっと暴れれば日本は逃げていく」と思われエスカレートしていくのです。
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梅田正巳著「近代日本の戦争」 P98


 翌26年6月、国民党は「北伐」(北方軍閥の討伐)を決定、7月、蒋介石を総司令とする国民革命軍10万が広東を出発、北京に向かいます。途中、革命軍はいくつもの軍閥の軍と戦いますが、私兵からなる軍閥軍の士気は低く次々と撃破されていきます。
 しかし、国民党内の左右の勢力の亀裂はいっそう深まっていきました。27年3月、上海の労働者は共産党員・周恩来の指導でゼネストを打つとともに武装蜂起し、軍閥の軍を一掃して臨時政府を樹立しますが、4月、蒋介石はその上海の労働者に襲い掛かり、20万人の抗議デモに機銃掃射を浴びせます。

 梅田氏の記述は一言も触れていません。もちろん日本軍と交戦したわけではありませんから、主旨とは異なります。しかし、国共合作などの背景は述べているのですし、日本で出版する本であれば一言ぐらいは書いても良いはずです。それでも書かない。日本人に贖罪意識を植え付け、自分の名声と生活を脅かす田母神論文をやっつけることしか考えていないということでしょう。



添付画像
 北伐にのぞむ蒋介石1926年(PD)

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