金玉均のクーデターを無視

朝鮮独立の志士、金玉均の光は眩しいから抹殺。


 梅田正巳著「近代日本の戦争」では「田母神論文」の「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」を検証に対するため、明治15年(1882年)壬午軍乱の際に結んだ条約、済物浦条約(さいもっぽじょうやく)をあげています。このとき、日本は朝鮮に若干名の兵を駐屯させることが可能となりました。しかし、明治29年(1894年)東学等の乱が起きたとき、日本は4000人も派兵したのは理にかなっていない、と述べています。
 これは以前に述べましたが、田母神論文の曖昧さを突いた話であり、言及するのはあまり意味がありませんが、梅田正巳氏は壬午軍乱からいきなり東学等の乱、日清戦争へ記述が飛んでいます。実は明治17年(1884年)に甲申政変がおきており、このとき、日本軍と清軍が交戦しているのです。これを検証せず、無視してしまっています。
 
 朝鮮半島では清の属国から抜け出し、近代化を目指す「開化派」がいましたが、このリーダーが金玉均(キム・オッキュン)です。甲申政変は金玉均が起こしたクーデターです。このとき、日本軍150が宮廷を警護していました。そこに清国軍1300が攻撃してきています。この兵の駐屯と交戦について検証すべきところを無視してしまった。なぜか?
 
 一つはこれは合法的に駐屯していたことを認めたくなかったし、日清戦争を強調したかったというのがあるでしょう。それから金玉均のことをあまり語りたくなかったのでしょう。清の属国から抜け出し、朝鮮の近代化を目指したリーダーといえば、ヒーローです。それを日本が支援していたなど、日本嫌いの梅田氏にとってはイヤな歴史です。さらに金玉均はクーデターに失敗した後、日本に亡命しましたが、閔妃一派の謀略によって上海におびき出され暗殺され、朝鮮半島で五体をバラバラにされ、晒されています。梅田氏は閔妃一派が開化派だ(P59)と書いており、金玉均の事件を書いてしまうと本当の朝鮮事情や朝鮮人の残虐性を暴露してしまうことになります。梅田氏にとっては支那、朝鮮は正義、あるいは弱者であり、日本は悪でなければなりません。この構図に水を差したくなかったということでしょう。ただ一切書かないのも申し訳なかったのか、全く関係のない「義和団事件」のところ(P75)で少し触れています。実に稚拙な手法でありましょう。



金玉均のクーデター
 クーデター決行 〜 甲申政変 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26341721.html
 クーデター失敗 〜 甲申政変 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26352930.html

添付画像
 金玉均(1882年長崎での写真 PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。


朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun
http://www.youtube.com/watch?v=OKiawHiNuWA