東條英機の素顔



 日米開戦時の総理大臣だった東條英機は戦後、戦犯指名を受け、自殺を試みますが、未遂に終わります。このとき、頭を撃たずに胸を撃ちました。このため色々な憶測が飛びましたが、連合軍が遺体を写真にとったり醜い姿を世間に示すであろうから、向かいに住んでいた鈴木医学博士に相談し、心臓を撃つ事として心臓のところを墨でしるしをしてもらっていたものでした。しかし、東條英機は左利きだったため左で左からの心臓は撃ちにくく、右で撃ったためわずかに心臓をそれて未遂になりました。

 東條英機はこの後、横浜の米野戦病院で治療を受け、大森の収容所に入れられます。巣鴨プリズンはまだ建設中でした。このとき、陸軍軍曹だった飛田時雄さんはC級戦犯で収監されており、収容所の掃除係りになっていました。東條英機の部屋の掃除のとき、東條英機は部屋の外で待機し、掃除が終わると「ありがとう、ご苦労様」とねぎらいの声をかけてくれたといいます。他の閣僚クラスや軍幹部クラスの人はそのようなことはなかったそうです。

 飛田さんは収容所の風呂に入っていたとき、嶋田海相が「君、ちょっとすまんが閣下を一緒に入れてやってくれんか」といわれ、すぐ同僚を呼んで二人で両脇を抱えるようにして東條英機を風呂に入れています。東條英機は病み上がりでまだ足元がおぼつかない状況でした。そして背中を流そうとすると、背中に500円玉大の傷跡が残っていました。自殺未遂のときのものです。東條英機はここでも「いやすまん、君、すまん。ありがとう」と謝礼の言葉を述べ色々と励ましの言葉をかけてくれたといいます。

 この後、巣鴨プリズンに移ることになり、飛田さんは東條英機に記念の言葉を書いてください、と頼み「一誠排萬艱」と書いてくれました。「一誠、万難を排す」・・・単純に読めば誠を貫けば難はない、ということですが、これから始まる東京裁判で信念を貫き通すぞ、という心情でしょうか。巣鴨プリズンでも飛田さんは東條英機としばしば顔をあわせ「飛田君、これえ吸ってくれんか。毎日もらうので、余って困る」といって時折、タバコをもらったといいます。

 東條英機という人は一個の人間に対しては非常に優しかったといいます。心が優しく気配りの人で首相時代は多忙な一日が終わると漫才師や講談師や歌手を官邸によび側近たちを慰めていました。歌手の高峰三枝子が東條らの前で「湖畔の宿」を歌ったとき、一番大きな拍手をしてくれたのは東條英機だったと述べています。

 戦後は東條批判、陸軍批判だけが行われて人間・東條英機というものは隠蔽されていました。そして日米戦争を「最初から無謀だった」「自殺行為だった」と片付けてしまっています。このような思考は健全とは思えず、未来に対して何の役にも立たないように思います。



参考文献
 「秘録 東京裁判清瀬一郎著
 「東条英機」太田尚樹著
 WILL2010.1 「私が獄中で見た東條さんの背中の傷跡」岡村青

添付画像
 東条英機と、妻の勝子、孫の由布子(昭和16年 PD)
 
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元首相から戦争を知らない日本人へ
 http://www.youtube.com/watch?v=2H63kaj_4ac