昭和天皇とマッカーサー

 昭和天皇マッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。
 
 マッカーサーが解任されたとき昭和天皇アメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。
 
共同通信 昭和26年4月15日
「玄関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやかにご歓談された」

 こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどというのを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。
 
 月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州ノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。
 昭和50年(1975年)昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。
 訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウス天皇歓迎ディナーの招待を断りました。
 
 明らかに昭和天皇マッカーサーを拒否しています。
 
 昭和天皇はこのときの訪米を前に記者団とこんなやりとりをしています。
記者「陛下は、過去30年間における日本人の価値観の変化をお感じになりますか」
陛下「戦争の終結以来、いろいろな人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし、広い観点からみるならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません(略)」

記者「陛下は先の質問に対するお答えで、戦前と戦後の変化はないとおっしゃいましたが、これは日本が軍事大国に復活する可能性があると、お考えになっていることを意味しているのですか?」
陛下「考えていません。日本国憲法は日本が軍事大国になることを認めていません」

記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」

記者「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」
陛下「いいえ、私はその可能性についてはまったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです」

 
 私はこれらのことを見るとGHQの政策によって洗脳され骨抜きにされた国民に対して昭和天皇はこういいたかったのではないかと思えてなりません。
 
 「マ元帥の意思は朕の意思にあらず。日本には伝統的によいものがあり、国民は自信と誇りをもってそれを大切にせよ」 



参考文献
 「昭和天皇論」小林よしのり
 「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀 編
 「新潮45 2009/9」『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』川西秀哉
添付画像
 昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)

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