江戸時代、百姓は天皇を知っていた
私は昔、明治維新の新選組の本をいくつか読みました。その中で尊王思想というのがありますが、庶民は京都を除いては「天皇」の存在は薄いものと書かれていた記憶があります。
小林よしのり「天皇論 追撃篇」で作家の小谷野敦(こやの とん)氏が「江戸時代に天皇を知っていたのは公家・武士のほかは京都大阪の町人だけで日本人の2割程度に過ぎない」と主張していることに対し、「奥州のある村の百姓は後桃園天皇の崩御についてわずか10日ほどあとにはもう日記に書いていた」と庶民は天皇を知っていたと主張しています。
小谷野敦氏は皇室廃止論者なので、最初から結論ありきかな?と想像してしまいますが、小林よしのり氏は左翼出身者ですから割と客観性をもった目で見れているのではないかと思っています。
江戸時代には天皇・上皇や将軍・大御所が死去すると「鳴物停止令」「普請停止令」というのが出され、歌舞伎音曲や建築土木の大音響が一定期間(7−50日地域差あり)止められたようです。ですから、お触れがただちに全国津々浦々に届いています。もちろん琉球にも届いており、天皇崩御の際は日本全国で喪に服しました。そのほか暦は農村では一世帯に一部はあり、年号が書かれており、年号が変わると改元の触書がまわります。公儀(幕府)と京都(朝廷)とはっきり認識されています。
百姓一揆では天皇と百姓の関係が明らかに意識され、直接天皇に徳政や年貢減免を訴えた一揆も多く、文政4年(1821年)の一揆で逮捕された林八右衛門の「観農教訓録」に、
「然れば上御一人より下万人に至るまで人は人というに別はなかるべし」
と書いており、「天皇のもとの平等」を訴えています。
そもそも武士が搾取したとか、士農工商の厳しい身分制度があったというのは戦後に階級闘争になぞらえて日本の歴史を否定した嘘っぱちなわけで、武士と町人、百姓は激しい身分制度ではなく、百姓も武士になれたし、権力も分散されており、村人が選んだ名主という民主的な制度もあったのです。
百姓というのも戦後差別的用語のように言われていますが、こういうウソっぱちをある種のイデオロギーが吹き込んだわけで、百姓はたくさんの姓という意味であり天皇から姓を与えられた公民の総称なのです。天皇 − 公民の関係は武家社会になってもなんら変わることなく生き続けたのです。そしてそれは「一君万民」の思想として明治維新へとつながっています。
百姓どもカラカラと打ち笑い、
汝等百姓などと軽しめるは
心得違いなり、百姓の事を能く(よく)承れ、
士農工商天下の遊民
源平藤橘の四姓を離れず、
天下の庶民皆百姓なり、
其命を養う故に
農民ばかりを百姓というなり、
汝らも百姓に養るなり。
此道理も知らずして
百姓杯と罵るは不届者なり
天下の庶民みな百姓、おのれら武士の命をも養っているのだ、カラカラ。いやはや百姓強い強い。日本の2700年の歴史がはぐくんだ天皇の下の公民はみな平等。戦後の捏造歴史はふっ飛ばしましょう。
参考文献
SAPIO 2009/11/11「天皇論追撃編」小林よしのり
「天皇論」小林よしのり著
添付写真
平成21年12月23日の一般参賀(JJ太郎撮影)