蒙古来襲は神風が勝因ではない!?

 モンゴル大帝国が大軍を持って日本に押し寄せ、鎌倉幕府軍はその圧倒的兵力、兵器の前に手も足も出ず、神風(台風)が吹いて辛うじて日本は救われた・・・というのはどうも違うようです。
 第1回目の元寇文永の役ではモンゴル軍はそもそも小手調べのつもりで攻撃してきており、いくらか戦闘を行った結果、軍議を開いて一旦撤収することになったようで、帰途で嵐にあったと高麗の史料に書かれているそうです。日本側の資料もモンゴル軍が攻めてこないのでどうしたのか見に行ったら、船がなかったと書かれており、博多湾で嵐にあったのであれば、船の残骸や死体のことが書かれているはずですが、書かれていません。
 モンゴルの集団戦法や「てつはう」と呼ばれる爆薬や毒矢は確かに苦戦したようで、個別に攻撃していたのでは埒があかず、日本軍は一旦水城というところまで退却して体制の立て直しを計ったようです。しかし、モンゴル軍からしてみれば対馬壱岐、博多の戦闘で日本軍は死を恐れずに突撃してくる様や射程距離の長い日本の弓矢は脅威だったようで、その様をモンゴル皇帝フビライに報告しています。なお、モンゴル軍の副将は日本の弓矢で重症を負っています。
 弘安の役では台風が吹き、モンゴル軍は全滅しました。しかし、これも勝敗を分けた要因ではなく、実は当初より日本軍の圧勝だったようです。モンゴル軍が来襲したのは5月21日ですから、台風の季節には早すぎます。モンゴル軍が台風で全滅したのは7月1日(太陽暦8/23)です。この間、戦闘が長々と続けられたようです。
 モンゴル軍は12万と伝えられていますが、実は船のこぎ手も含んでおり、戦闘兵力は6万程度だっただろうと推測されています。一方日本軍は10万。しかも時間がたてば立つほど各地より応援部隊が到着しますから、数の上では日本軍が圧倒的優勢だったといえます。しかもモンゴル軍は軍勢二つのうち一つが遅れて到着しています。
 モンゴル軍は石塁によって上陸を阻止されたといわれていますが、石塁がないところから上陸したようです。しかし、そこに日本軍が数にモノを言わせて攻めこんできますから、モンゴル軍は惨敗だったようで、山口県のほうでもモンゴル軍は上陸したと伝えられており、ここでの戦闘もモンゴル軍の全滅だったようです。
 日本軍は水軍が夜襲をかけて射程距離の長い弓を放ったり、船に乗り込み首を切って持ち帰ります。それはそれはモンゴル軍にとっては夜も十分眠れぬぐらいの恐怖であったことでしょう。上陸ができなければ船に積んだ食料のうち野菜が腐って栄養が偏り、病気になる兵士も増えます。台風は最後の「泣きっ面に蜂」だったようです。
 このように神風で奇跡的に勝ったわけではないわけで、勝因は何か?ということになります。結果としてこうだったから勝てたというのは色々あると思いますが、当時の鎌倉幕府にしてみれば、未知の敵であり勝算など立てようがありません。しかし幕府の執権、北条時宗は一貫して強行姿勢を貫き、幕府内の結束を強めるため、六波羅の兄と評定衆の一族を抹殺しています。日本で初めて強烈な国家意識、国防意識が芽生え、オールジャパン態勢を整えます。文永の役の反省から異国警固番役を定めたり、北条一族から博多に鎮西軍4万人、長門に2万人を配置します。そして博多湾に石塁を築き上陸しにくくします。つまり国家としてやるべきことをやって戦いに臨んだということで、人事を尽くした結果の勝利だったということではないでしょうか。


参考サイト
 常勝ニッポン(武田邦彦) http://takedanet.com/2007/04/post_ce1a.html
 WikiPedia元寇
参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」


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